お洒落髭

 さて今月のナポレオン漫画は、史実通りの展開だった先月の反動か、かなりぶっ飛んだ話になっていた。フィクションに力を入れろという編集の指摘をそのまま実行したのだろう。その恩恵を蒙っていきなり大物化したのがアレクサンドリアの首長にしてお洒落な髭の持ち主、モハメッド・エル・コライムだ。アレクサンドリアの住民を煽り立てるわ、自らフランス軍斥候隊襲撃の指揮を執るわ、フランス軍人の首をはねるわ、髭が輪を描くわと、縦横無尽の大活躍である。
 漫画ではなく史実のアル=サイード・ムハンマド・クライームが何をしたのかをアル=ジャバルティの記録から調べてみる。まず、「フランス軍が来る」というネルソンの警告を彼が信じなかったこと、そして英国軍が申し出た協力を拒否したことは史実のようだ(Al-Jabarti's Chronicle of the French Occupation, p20)。ただ、フランス軍を攻撃した人物としてアル=ジャバルティが紹介しているのはアル=ブハイラのカーシフと彼に付き従ったベドウィンたちであり(p20)、クライームではない。カーシフらはあっさり敗北して逃げている(p22)。アレクサンドリアが短時間で陥落したのは大陸軍戦報の通り。
 アル=ジャバルティによるとクライームは「とても腰の軽い男で、人間関係では友好的であり、その親切な気質によって絶えず人々から慕われていた。彼はまた、自らの下にいる人々の中の名士たちに加え、官吏や他の人々、例えばムスリムやキリスト教徒の商人たちを満足させようとしていた。このようにして彼は人々の親愛の情を勝ち取り、有名になって、アレクサンドリア港とロゼッタ、カイロでよく知られるようになった」(p54)。なお、髭が輪を描いていたかどうかは不明。
 やがて彼は有力なマムルークであるムーラッド・ベイと親しくなり、彼のために働くようになる。クライームはムーラッド・ベイに金を送るために「悪知恵を働かせて特にヨーロッパの商人の商品を差し押さえるようになった」(p55)。アル=ジャバルティはクライームによるこの行為がフランス軍の軍事行動を招いた最も重要な理由の一つだとしている(p56)。到着したフランス軍はクライームを逮捕し、金を返すよう彼を苦しめた。さらにカイロに到着した時点でムーラッド・ベイの宮殿からクライームの手紙を発見し、クライームを処刑したという(p58)。
 アル=ジャバルティの記述はフランス側の記録と必ずしも一致していない。ナポレオンの書簡集を見ると、彼はアレクサンドリアを出発する直前の7月7日に、コライム(クライーム)をアレクサンドリアの総督に任命している。「司令官は、フランス軍到着以降のサイード・モハメッド・エル=コライムの行動に大変満足している」(Correspondance de Napoleon Ier, Tome Quatrieme"http://books.google.com/books?id=9lcuAAAAMAAJ" p228)というのがその理由。欧州の商人から奪った金を返させるためにやって来たのなら、その人物をアレクサンドリア総督に任命することはないだろう。アル=ジャバルティの推測はおそらく外れだ。
 だが、それから1ヶ月もしない7月30日、ボナパルト将軍はカイロで「サイード・モハメッド・エル=コライムの裏切りの証拠」(p278)を見つけたとしてコライムに30万フランの身代金を払うこと、それができなければ命令発布の5日後に首をはねることを命じている。ただこの命令がすぐに実行されることはなく、コライムはまずカイロへと身柄を送られてる(p342、p397など)。
 8月15日のデュピュイ将軍宛の手紙で、ボナパルトは「我々に忠誠を誓って以降、ムーラッド・ベイに手紙を出したか」「我々に忠誠を誓った後に、どのマムルークへ手紙を書いたか」などの点を問い質すよう命じている(p345)。これを見ても分かるように、フランス軍がコライムの罪と見なしたのは、彼がフランス側に忠誠を誓ってアレクサンドリアの総督になった後にムーラッド・ベイに内通したことである。つまり裏切りこそが問題であって、コライムが溜め込んだ金は(少なくとも建前では)副次的要因に過ぎなかった。
 コライムに最後通告が出されたのは9月5日。ボナパルトは「この国の慣習に従って」今日一日だけ彼の首を買い戻す余裕を与える、という命令をデュピュイに下している(p469)。アル=ジャバルティによればクライームに与えられた時間はたった12時間。彼はシャイフ(長老)たちに「助けを求めて嘆願、懇請し、『私を身請けしてください、ムスリムの同胞たちよ』と泣き叫んだ」(Al-Jabarti, p58)。しかし誰も彼に手を差し伸べる者はいなかったという。
 クライームの処刑は9月6日の正午に行われた。彼はフランス風に銃殺刑となり、その後で首をはねられ、その首はカイロの街中を引き回された(Al-Jabarti, p58-59 及びCorrespondance de Napoleon Ier, p470)。だがクライームはシャリーフ(預言者ムハンマドの子孫)だったため、彼の処刑はフランス軍に対するムスリムの反感を高めたという。ニクラ・アル=トゥルクはフランス軍に対する憎悪の原因には「サイード・ムハンマド・クライームの殺害も含まれる、というのも彼はシャリーフだったからだ」(Juan Cole "Napoleon's Egypt" p187)と記している。

 という訳で完全に先走った史実の紹介になってしまった。ほぼネタバレと言っていいが、まあ漫画はフィクションだし必ずしも史実通りにはならないだろうってことで見逃してもらおう。
 コライム以外で目立っていた存在としては、まず白熊。実に嫌味ったらしい良いキャラだ。それ以外ではドゼー、クレベール、デュマといったあたりがそこそこ活躍していた。ネタバレついでに言っておくと、というか既に戦報では触れられているのだが、クレベールはアレクサンドリア攻撃時に負傷し、その後この港町にとどまって駐留部隊の指揮を執ることになる。ドゼーとデュマはボナパルトと一緒にカイロまで進軍する。

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コメント

No title

RAPTORNIS
銃殺されたあとに首をはねられたのですね。
エジプト遠征について書かれた本を読むと、「首をはねた」という記述がよく出てきます。フランス軍側もこの方法で処刑したそうですが、これはギロチンを使ったのでしょうか。それともサーベルで斬ったのでしょうか。フランスではギロチン以前の斬首は刀剣を使用したそうなのですが。

No title

desaixjp
クライームの場合、どうやって首をはねたのかについての説明はJabartiも記していませんでした。ギロチンを持ち込んだのか、それとも現地の処刑人に斬首させたのか、そのあたりは調べてみないと分かりません。
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