不可能とフランス語

 前に調べて挫折した「余の辞書に不可能の文字はない」の淵源"http://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/34317456.html"について、ようやく見つけることができた。google bookでこの時期を含んだナポレオンの書簡集を見つけたのだ。Correspondance de Napoleon Ier, Tome vingt-cinquieme. (1868)"http://books.google.com/books?id=0QpoAAAAMAAJ"に目標の手紙がある。短い手紙なので、全文紹介しよう。

「将軍ルマロワ伯(マグデブルク知事)宛、
 ドレスデン、1813年7月9日。
 貴官の7月6日付の手紙を受け取った。貴官はマグデブルクに24万ブッシェルのカラスムギを持っている。『可能ではない』と貴官は書いて寄越したが、それはフランス語ではない。私は貴官の手紙に不満を抱いている。カラスムギを積んだ船を二隻出して、死にかけている親衛隊の馬匹へ送れ。これらのカラスムギはその地域に到着する次の収穫によって、そして最終的には第32軍管区へ送られたものによって置き換えられるだろう。
 帝国公文書保管所の控えによる」
Napoleon Ier, Tome vingt-cinquieme. p479

 フランス語を丸写しするなら"Ce n'est pas possible", m'ecrivez-vous: cela n'est pas francaisとなる。ルマロワが書いて寄越した「可能ではない」を引き、それを否定するという文体だ。一般に知られているImpossible n'est pas francaisというのは、実際の文章をかなり要約したものであることが分かる。
 シェヘラザードさんもこの言葉について記事を書いている"http://www.geocities.jp/rougeaud1769/suvorov.htm"が、そこで紹介されているフランス語のサイト"http://vdaucourt.free.fr/Mothisto/Napoleon6/Napoleon6.htm"ではきちんとオリジナルの文章が紹介されている。そして、このページでもう一つの淵源と指摘されているのがフーシェの証言だ。こちらも見つけ出すことに成功した。

「私は取り乱すことなく答えた。『確かに、陛下が我々に教えてくれた“不可能というのはフランス語ではない”ことを私は思い出すべきでした』」
Memoires de Joseph Fouche (1824)"http://books.google.com/books?id=fJkQAAAAYAAJ" p330

 回想録でこのimpossible n'est pas francaisというフレーズを発しているのはフーシェ自身であり、ナポレオンではない。ただこのフレーズをナポレオンがしばしば使っていたことはこの回想録からも十分に窺うことができる。多分、部下に向かって「ごたごた言わずにやれ」といったニュアンスでこの台詞を吐いていたのだろう。ワーカホリックの上司が好きそうな言葉である。

 という訳でソースは確定できたが、それにしてもこのフレーズはそんなに有名なのだろうか。日本語wikiquote"http://ja.wikiquote.org/"でナポレオンの項目を見ると「四千年の歴史」に次ぐ二番手に出てくるから日本で有名なのは事実だろう。しかしこれが英語wikiquote"http://en.wikiquote.org/wiki/Napoleon_I_of_France"になると、登場順位は10番と急落する。「荘厳さから滑稽さまでは、わずか一歩にすぎない」の方が上に来ているくらいだ。
 フランス語wikiquote"http://fr.wikiquote.org/wiki/Napol%C3%A9on_Bonaparte"に至っては不可能の「不」の字もない。最初が「40の世紀」で次が「アウステルリッツの太陽」と、ナポレオンが行った戦いに関するフレーズが上位に出ているが、どこを見渡してもimpossibleというフレーズが出てこないのだ。もしかしたらフランス本国ではさほど知名度の高くない台詞なのではなかろうか。

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コメント

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RAPTORNIS
10年ほど前に書店で子ども向けの漫画を立ち読みしたのですが、それによるとアルプス越えの際に、「不可能とは臆病者の言い訳だ」と言った砲兵隊長がいて、ナポレオンがその台詞を気に入って自分でも使ったため、ナポレオン自身の言葉として伝えられたとありました。これの元ネタは長塚隆二の本で、砲兵隊長とはマルモンのことのようですね。
記事にもあるように、「ごたごた言わずにやれ」というニュアンスで使われた台詞が、“名言”として後世に残ってしまったのかもしれません。

ところで、Esposito & Elting共著のAtlas(1999年版)によると、ナポレオン関連の書籍は25万冊出版されたそうですが、これを全部読むのはナポレオンでも不可能ですね。ぼくとしては自分自身の貧弱な脳ミソにナポレオン戦争全般を叩き込むのは到底無理なので、「ワーテルローだけの男」にとどまるつもりです(他に趣味を抱えていることもありますが)。

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desaixjp
マルモンの回想録をちょっと見てみましたが、それらしい記述は見つかりませんでしたね。
代わりに発見したのは18世紀の軍人コンティ公"http://fr.wikipedia.org/wiki/Louis_Fran%C3%A7ois_de_Bourbon-Conti"の話。Dictionnaire historique et biographique des generaux francais"http://books.google.com/books?id=K7-pBapi6-oC"のp108には、スペインの将軍がある要塞について難攻不落だと発言したのに対し、コンティ公が「その言葉はフランス語ではない」と切り返した、という話が載っています。impossibleではなくimprenableですが、似たような言い回しはナポレオン以前からあったようです。

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desaixjp
マルモンの回想録をもう少しきちんと調べると、以下の文章が見つかりました。

「若く、活動的で、既に不可能という言葉は、大半のケースにおいて単なる気弱さの言い訳に過ぎないと確信していた私は、成功を疑わなかった」
Memoires du marechal Marmont, Tome Deuxieme"http://books.google.com/books?id=mpgPAAAAQAAJ" p115

うーん、これは単に年老いたマルモンが昔を振り返って述べた言葉としか思えませんね。実際にアルプス越えの最中にそう発言したと解釈するのは無理があるのではと。

No title

RAPTORNIS
なるほど、マルモンの回想録にそのようなフレーズがありましたか。
長塚本の参考文献にもマルモンの回想録が挙げられていましたが、アルプス越えでのボナパルトとのやりとりは脚色、つまり既に“小説”の領域に入ってしまったということになるのでしょうか。
件の漫画の作者は長塚本を元ネタにしたのかどうかはわかりませんが、要は子ども向けの読み物なので、一次資料を当たるほど徹底追及しているとは思えません。一般向けの書籍にちょっと面白そうなエピソードが載っていたので、雑学ネタとして拝借したという感じでした。

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desaixjp
マルモンの回想録以外に論拠となる一次史料がある、または私自身が見落としていた記述がある、といった可能性が残されていますので、長塚本の記述が「小説」だと断言するのは無理です。ただ、上に紹介した文を論拠にそういう話を書いているのなら、それは確かに歴史記述に認められる範囲を超えたフィクションだと言われても仕方ないでしょう。実際問題、長塚本には史実でなくフィクションとしか思えない記述が多いのは確かです。

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アトリエ
こんにちは、はじめまして。いきなりこんなコメントをすみません。
お詳しさと情報の多さにもうびっくりしてしまいました。
そうだったのですか、ナポレオンが言ったのではなかったのですね~
全部信じてはだめですね、そこが難しいですね・・・
それにしてもほんとにすごいです!・・・

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desaixjp
はじめまして。ここで書いているのは「私が探した範囲では、ナポレオン自身がimpossible n'est pas francaisと発言している史料は見つからなかった」という意味です。ナポレオン自身がそう発言しなかった、という意味ではありません。史料に残っていないだけで、ナポレオン自身がそう発言していた可能性はありますし、フーシェの回想録を素直に読む限りは実際に発言していた可能性は高そうです。
全部信じてはだめ、というのはおっしゃる通りです。なので私が書いている文書についても鵜呑みにせず、ご自分でソースに当たって調べてみることをお勧めします。探せばナポレオン自身がimpossible n'est pas francaisと言っている証拠だって見つかるかもしれません。

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アトリエ
ほんとうですね、全部信じてはいけないって言ってる瞬間信じて
しまってますね・・ごめんなさい
ところで、どのようにいつもお調べになっているのですか不思議で仕方ありません

No title

desaixjp
文中に記しているソースをご覧になれば分かる通り、google bookなどで調べていることが多いです。google bookもgoogleも基本は同じで、どれだけ適切な検索ワードを打ち込めるかによって調査効率と実効性が変わってきます。そのあたりは経験を積むしかないと思いますが。
あとは手元にある文献の参考史料紹介ページを見て、そこから遡及して調べる方法があります。まともな内容の本にはまともな参考史料が紹介されていることが多いので、芋づる式に調べていくことは有意義でしょう。
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