赤いバラ…補足

 書いたばかりの話だが、訂正する必要が出てきた。まず、マテュー・デュマが記したDes resultats de la derniere campagne (1797)"http://books.google.com/books?id=Y6sWAAAAQAAJ"という本に、マルソーとアンジェリークの話が載っていたことが判明。残念ながらgoogle bookではごく一部しか中身を見ることができなかったが、そこには以下のようなことが記されていたのだ。

「マルソー将軍がデ=ムリエ嬢を見たのはル=マンの[王党派]敗走時だ。変装して逃げていた彼女は、共和国軍の兵士に捕まった。(中略)デ=ムリエは18歳だった。彼女は美しく、マルソーは(中略)裁判を遅らせ、恩赦を求めにパリへ向かった(中略)。ラヴァルへ戻ってくる途中、マルソーはデ=ムリエ嬢が処刑されたことを知った」
Des resultats de la derniere campagne, p210

 前にマルソーがパリへ恩赦を求めに行く話はアレクサンドル・デュマが元ネタではないかと書いたが、これを読む限りデュマはデュマでもマテュー・デュマの方が元ネタだと考えた方がよさそうに思える。そして、19世紀中盤以降の歴史家たちがどうやらマテュー・デュマを参考にしたらしいこと、アレクサンドル・デュマもこれを使って小説に仕上げたらしいことも分かる。要するに小説「赤いバラ」に相当する話は1797年にはほとんど出来上がっていたのだ。想像力がなかったのは、19世紀中盤以降の歴史家たちではなく、小説家アレクサンドル・デュマの方だったようだ。

 もう一つ、ル=マンで彼女を助けたのが誰かという話についても訂正の必要がありそう。参謀副官サヴァリーの話を元に、ル=マンで彼女を助けたのはマルソーではないとの説を紹介したが、これに反論している人物がいる。一人はマルソーの姉の夫セルジャン。彼が記したNotice historiqueのp13には「ル=マンの戦いの際に、戦って兵士たちに追われていたこの若者[アンジェリーク]は、幸運にも馬に乗り幕僚に囲まれ命令を下していたマルソーと出会った。彼がこの少女を助け、宿営地の参謀副官サヴァリー(の下)に連れて行ったのは、この時である」(Les Vendeens dans la Sarthe, Tome II. (1871)"http://www.archive.org/details/lesvendensdansl00whitgoog" p282)と書かれている。
 他にもセルジャンの記録の中には、手書きで未刊行のFragments des Memoires de la vie privee de Marceau, par son beau-frere et amiというものがある。そこではマルソーが、ル=マンから出発しようとする際に、兵士たちに脅かされて彼に助けを求める少女に出会ったことが記されている。「少女よ、我々は戦いに来たのであって、女性を殺すためではない。立ちなさい、私があなたの命を守ろう」(Les Vendeens dans la Sarthe, Tome II. p282)とマルソーは言ったそうだ。
 セルジャンはマルソー自身から話を聞ける立場にあったと思われる。だが彼はこの事件の当事者ではない。つまり、彼の残した記録は二次史料だ。ル=マンの戦場にいたサヴァリーの証言(一次史料)と比べると、セルジャンの指摘はそれだけでは弱いと言わざるを得ないだろう。だが、他の証言があったらどうか。彼ら以外の当事者が残している証言が、セルジャンのものと軌を一にしていたとしたら。事実、そういう証言があるのだ。
 一つは他ならぬアンジェリーク自身の発言。ラヴァルで獄中にいた彼女が共和国暦2年雪月9日[1793年12月29日]に叔母に宛てて出した手紙が残っている。私が探した範囲でこの史料が掲載されている最も早い出版物は、Histoire de la Vendee militaire (1840)"http://books.google.com/books?id=NP4TAAAAQAAJ"。手紙の全文はRevue de Bretagne et de Vendee (1863)"http://books.google.com/books?id=hIoVAAAAYAAJ"などで読むことができる。アンジェリークはマルソーについて、この手紙の中で以下のように述べている。

「ル=マンで共和国軍が完全な勝利を得たのはご存知でしょう。私は家族から離れるという恐ろしい不運に見舞われました。この身の毛がよだつ壊走の中で、私はいっそ死を望みました。私に同情を寄せたのは共和国側の兵士たちだけでした。私はマルソー将軍に助けられ、彼は私を慈悲深く扱ってくれただけではなく、さらなる称賛の念を覚えるほど誠実で寛容でした。彼は私をラヴァルに連れて行きましたが、彼の[逮捕されることはないとの]確約にも関わらず、私は牢に入れられ、そこに私は3日間いました。(中略)私の安全は私の若さにのみかかっています。私を守ってくれた有益な将軍は、その点に敬意を払ってくれました」
Revue de Bretagne et de Vendee, p396

 彼女は「ル=マンで」「マルソー将軍に助けられ」たと述べ、その後で「彼は私をラヴァルへ連れて行きました」としている。サヴァリーの証言に比べれば具体性に欠ける内容だが、この文章を素直に読む限りル=マンで彼女を助けたのはマルソー自身だったと考える方が自然だろう。
 もう一つはラヴァルに住んでいたセレテンという人物がドゥローネー=デルネなる人物に宛てて出した共和国暦2年霜月26日(1793年12月16日)付の手紙だ。La Vendee en 1793 (1852)"http://books.google.com/books?id=hXDITQoHrFIC"という本の中で、この手紙が紹介されている。

「使用人のジャンヌトンと一緒に少女をあなたのところへ送ります。彼女の運命は痛ましいものです。彼女は、父も母も友人も、全てをなくしました。彼女の名はデ=ムリエで、モンフォーソンの住人です。彼女はル=マンの惨事の中で兵士たちに襲われました。彼女はマルソーを見つけ、彼のところに身を投じました。彼はサヴァリーに、彼女を引き取って助けるよう話し、それから兵を再編し混乱を収めるため軍鼓を鳴らすよう命じました。
 サヴァリーは少女を馬車に乗せ、軍隊の後をついて来させました。彼はこの哀れな子供を死なせないよう私に請いました。この少女をあなたに委ねますので、面倒を見てやってください」
La Vendee en 1793, p374-375

 セレテンもまたル=マンの戦場にいた当事者ではないが、アンジェリーク自身から事情を聞くことはできただろう。その彼の証言もまた、マルソー自身がアンジェリークを救出したことを窺わせるものとなっている。3人もの証言が集まると、これは簡単には否定できない。Henri Chardonはマルソー自身が救出したとの説を採った上で「おそらくサヴァリーは、[マルソーに救出された]デ=ムリエ嬢が擲弾兵に連れられてやって来た時に司令部にいただけだろう」(Les Vendeens dans la Sarthe, Tome II. p283)と推測している。サヴァリーの証言は、彼女が司令部にやって来た後のことを記している、という訳だ。

 サヴァリーに任せるだけでなく、マルソー自身も彼女を救うための手立ては打っている。大急ぎで書かれた彼の直筆のメモが見つかっており、そこには以下の文章が記されていた。

「ナント生まれで、通常はメーヌ=エ=ロワール県のモンフォーソンに在住する市民デムリエは、我々に対し、反乱軍がロワール河を渡った際に彼女の母が軍に同行することを強いたこと、反乱軍を見捨てて我々の下に来たことを言明し、そして今から良き市民として暮らすことを望み、彼女の安全を認める証明書を求めた。
 私は、上に記されている市民が、一にして不可分の共和国暦2年霜月22日(12月12日)に、善意をもって私の司令部を訪れたことをここに宣する。
 将軍マルソー」
Les Vendeens dans la Sarthe, Tome II. p284

 実際にアンジェリークが保護されたのはル=マンの戦い後の12月13日。だがマルソーは1日早い12日に彼女が自発的に投降してきたことにして、彼女の無罪を勝ち取ろうとしたのだろう。
 ただし、彼が彼女のために努力したのはここまで。アンジェリークの避難先を探したのはサヴァリーだったし、彼女が実際に捕まった後にマルソーは何もしていない。捕まったことすら知らなかったのだろう。彼は恋愛感情とは関係なく、痛ましい運命に翻弄されている少女を助ける努力をした。そしておそらく「必要な手は打った」と安心し、ラヴァルを去ったのではないだろうか。後になって彼女が処刑されたとの連絡を受けたマルソーは、きっと驚愕したことだろう。

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