前回は「歴史」と名の付く本などで、実際には歴史でなく小説(フィクション)に基づく話が何度も掲載されている事例を示した。いい加減な本を書き散らす著者たちを批判すべきか、あるいはそれだけの影響力を持つアレクサンドル・デュマはやっぱ凄いと感心すべきか、それは分からない。ただ、デュマの話自体は無から生まれてきた訳でないことには注意する必要がある。一体デュマはどこから「マルソーと王党派の少女との恋愛話」を引っ張ってきたのだろうか。
Guerres des Vendeens et des Chouans contre la Republique francaise, Tome Deuxieme(1824)"http://books.google.com/books?id=7vchAAAAYAAJ"で著者のSavaryは「マルソー将軍によってル=マンで助けられた若い女性に関しては、当時もその後も様々なことが語られている」(p435)と記している。デュマの小説が出版されたのは1825年または26年であり、Savaryがこの文章を書いた少し後。その頃には既に様々な(diversement)話が伝わっていたのは確かなようだ。では具体的にどんな話が伝えられていたのだろうか。
私が探した中で、この話を伝えているもっとも古い文献はMagasin encyclopedique(1797)"http://books.google.com/books?id=LPsWAAAAYAAJ"だった。Joseph LavalleeがSociete Philotechniqueの会合で読み上げたのに基づくこの文章を読むと、この「ヴァンデ版ロミオとジュリエット」の原型がどんなものだったか窺うことができる。
「この惨めな地域で狂信から好戦的になった女性たちの一人である若く美しい女性が、青ざめ、髪を振り乱してマルソーの下に駆けつけた。彼女はその足元に崩れ落ち、叫んだ。『マルソー! 助けて!』マルソーは彼女を立たせ、助けることを約束した。彼は彼女を友人の一人に預け、もてなすとともに捜索を避けられるようにした。
ああ! だがマルソーによる保護は犠牲者をほんの一時期守るだけだった。軍事委員会は彼女を隠れ家から引っ張り出し、17歳の彼女に死刑を宣告した。英雄の慈悲深さは、彼自身にとっても破滅的になりかねなかった。『法は武器を取った者の誰に対してであれ恩恵を与えることを禁じていた。妬みが高潔なマルソーを捕らえ、彼は糾弾された。委員会は極秘裏に開かれ、彼の処刑に向けた準備が整った。ここで尊敬すべきブールボット[派遣議員]が再登場する。彼はパリにいた。彼は急行し、委員会に姿を見せ、憤りながら訴訟文を引き裂き、感謝の念によって非道な罠から美徳を救い出すことを求めた』」
Magasin encyclopedique, p196-197
実に面白い。読めば分かる通り、パリから救出のため急いでやって来るのはかつてマルソーによって助けられた経験がある派遣議員のブールボットであり、彼が助けようとしたのはマルソー自身だ。もしかしたらデュマはこの挿話の登場人物を入れ替えて小説に仕立てたのかもしれない。ブールボットをマルソーに、マルソーを王党派の少女に変換して読むと、この話はそのまま小説のあの場面に相当することになる。ただ、このLavalleeの話自体には、マルソーが王党派の少女に恋していたとの言及は見当たらない。
Nouveau dictionnaire historique(1808)"http://books.google.com/books?id=dJIBAAAAMAAJ"になると恋愛話が表に出てくる。マルソーは「しばしこの女性の魅力的な顔立ちに視線をとどめ」(p117)、彼女を助ける決断をする。罪に問われたマルソーが派遣議員に助けられるのはLavalleeの話と同じだが、その後で「しかし彼が哀れみを抱いたヴァンデの少女を助け出すことは誰にもできなかった。絶望的になったマルソーは彼女の後を追おうと望んだほどだった」(p117)となっている。
この「ヴァンデ版ロミオとジュリエット」の話を広めた人物として、Lavallee以外にChateauneufがあげられる。例えばL'honneur francais(1808)"http://books.google.com/books?id=IrjDbmuL-xwC"はマルソーが王党派の少女を助けようとして自ら窮地に陥った話について「Chateauneuf氏のla vie du general Marceauを見よ」(p556)と記している。残念ながらこのChateauneufのla vie du general Marceauなる本を見つけることはできなかったが、19世紀初頭にはこうした話が伝えられていたことは確認できる。
中でも興味深いのはHistoire des grands capitaines de la France(1820)"http://books.google.com/books?id=DZQbiTpNjMkC"だろう。その中にBoufflers、Palissot、Esmenard、Salguesらの書いたJugemens sur l'histoire des grands capitainesなる文章が掲載されている(p467-)のだが、そこにChateauneuf氏曰く(dit M. de Chateauneuf)と称してマルソーに関する逸話が掲載されている。
「ホメロスの描く頭に兜をつけ手に槍を持った神々のように美しい少女が、兵士たちに追われ、マルソー将軍の足元で力尽きて倒れた。助けて! と彼女は叫んだ。彼は彼女を助け起こし、彼女の魅力的な顔立ちに視線を据え、非常に困惑しながらその目を逸らすと彼女を信頼できる家庭に預けた。
(中略)この代議士[ブールボット]による保護も、マルソーの涙も、共和国の暴君が定めた法令の執行にあたる二人の代理人が議長を務める委員会の猛威から、不運な少女を助けることはできなかった。マルソー将軍の寛大さの対象となった少女に対する恩赦を拒否する裁判官たちは、ロベスピエールのような主君にとっては好都合な存在だった。(中略)
裁判官はマルソーが彼女を隠していた避難所からヴァンデの少女を引きずり出した。処刑台での死刑を宣告された17歳の彼女は、自身の肖像画を友人に託し、哀れみと優しさに満ちた性格を彼女の心に深く刻み込んだ戦士にそれを渡すよう頼んだ。処刑に向かう時、彼女はその唇にかつてマルソーが自らの手で彼女の美しい髪を飾るために使ったバラの装飾品を咥えた。処刑人は首を切った後に彼女の頭を掲げた。驚いた見物人たちは彼女が大量の血を吐いたのだと信じた。それは死後硬直によって強く結ばれた口元に未だ残っていたバラだった」
Histoire des grands capitaines de la France, p475-476
デュマの小説の題名は「赤いバラ」。そのラストシーンはまさにここに描かれている通りだ。山岸藪鶯の翻訳によれば「斷頭臺に立ちたる死刑執行委員はいと長き黄金色の髪毛を掴みて、あはれに美しき少女の首を高く掲げ、罵り狂ふ賤民の前に差し示せば、色まだ失せぬ唇に、時ならぬ一輪の紅薔薇ぞ含まれける」というシーン。デュマはChateauneufの話をラストで印象的に使い、Lavalleeなどが紹介しているブールボットの話を加工して、最終的にあの小説を仕立て上げたのだろう。先行する様々な物語を取りまとめ、自分なりに手を加え、盛り上げて発表した。小説家として見るなら立派な仕事と言えそうだ。
それに比べると、前回紹介した「歴史と称するフィクション」を書いた連中の想像力の無さは惨めである。あれでは単にデュマの小説をコピペしただけ。きちんと一次史料を発掘してそれをコピペするなら全然OKだが、そうした労力を払おうとせず、またデュマのように面白いストーリーにするための工夫すら行わない。そういう現代日本でも沢山見られるような本が19世紀から大量に出ていたのだ。
それにしてもLavalleeやChateauneufがどこから話を仕入れ、それをどう加工して世に出したのかが気になる。例えばブールボットの話。参謀副官サヴァリーによればブールボットは「軽い病で数日ラヴァルにとどまっており、結果としてそこで[マルソーらの罪を問う]公式報告を押さえることができた。彼はサヴネーの戦い翌日に軍に合流した際に、その詳細を我々に教えてくれた」(Guerres des Vendeens et des Chouans contre la Republique francaise, Tome Deuxieme, p438)そうだ。ところがLavalleeやChateauneufによるとブールボットはパリから駆けつけたことになっている。なぜそうなったのか知りたいところだ。
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