オシアンと軍人たち

 歴史群像という雑誌の最新号に、ジロデという画家"http://fr.wikipedia.org/wiki/Girodet-Trioson"の描いた絵画が紹介されていた。スコットランドの民間伝承に題材をとった詩集「オシアン」の登場人物たちと、フランス革命時代の軍人たちを一緒に描いた1802年の作品"http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/f/fb/Anne-Louis_Girodet-Trioson_001.jpg"だ。
 革命戦争期に死去した多くの軍人たちが出てくるのだが、雑誌には彼らについてごく簡単にしか紹介していなかった。という訳でここで補足的に多少の情報を付け加えておこう。同時代のフランス人たちにはよく知られていたのかもしれないが、現代日本人にとっては大半が未知の存在だろうし。

 Oeuvres posthumes de Girodet-Trioson"http://books.google.com/books?id=LwUEAAAAYAAJ"のp291-292によると、この絵画に描かれているフランスの軍人たちはドゼー、クレベール、カファレリ=デュ=ファルガ、マルソー、ダンピエール、デュゴミエ、オッシュ、シャンピオネ、ジュベール、ラトゥール=ドーヴェルニュ、キルメーヌ、マルボ(回想録作者の父)、デュフォーだという。それ以外に歴史群像では右下に描かれている鼓手をジョゼフ・バラだとしていた。
 彼ら14人のうち、日本語wikipediaで紹介されているのは半分以下の6人に過ぎない。最も記述が多いのはなぜかデュゴミエだが、その彼でもたった5504バイト。他にはジュベール(3973バイト)とオッシュ(3823バイト)がそこそこ長いものの、ドゼーは1937バイト、クレベールは1342バイト、バラは990バイトとほんの僅かだ。要するに日本では知られていない軍人が大半ということである。
 絵画の中心にいるヒゲの長い爺さんがオシアン。その腕を取っている一番手前の人物がドゼーだ。彼の右上にいる髪の毛がぼさぼさの人物はクレベール。この2人はエジプト遠征に参加したことはよく知られているが、それ以前についてはあまり触れられない。実際にはこの2人、たとえエジプト遠征に参加しなかったとしてもフランス軍内ではかなり重要な位置を占めたであろうことは疑いない。ボナパルトのおかげで有名になった将軍ではなく、彼がいなくても高い知名度を誇っていた人物なのだ。
 ドゼーはラン=エ=モーゼル軍内で事実上のナンバー2であった。グーヴィオン=サン=シールの回想録などを読むと、ラン=エ=モーゼル軍司令官のモローがドゼー(と参謀長のレイニエ)の助言にほとんど頼りっぱなしであったことが分かる。ドゼーは第一次対仏大同盟の戦争が終わった後にイタリアへ出かけ(Journal de Voyage du General Desaix"http://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k1072484")てボナパルトらと親交を結んでおり、エジプト遠征時には上エジプトでの作戦を任されている。有能だったうえに上官の信頼を勝ち取るのがうまい人物だったのだろう。
 そのドゼーを差し置いてボナパルトの後任として東方軍(エジプト遠征軍)二代目司令官となったのがクレベール。こちらはサンブル=エ=ムーズ軍の事実上のナンバー2だったほか、ヴァンデ内戦が激しかった1793年当時は西方軍の事実上の司令官も務めている。ナポレオンが「軍服を着た軍神マルス」(Derniers momens de Napoleon, Tome II."http://books.google.com/books?id=83kuAAAAMAAJ" p66)にたとえたこの人物もまた実力は折り紙つきだ。ただ上官との折り合いはいつも良かった訳ではなく、友人だったジュールダンに対しても造反を起こしたことがある点は前にも何度も触れている。
 ドゼーの左上にいる筒型の軍帽をかぶっているのがマルソー。彼についてはこちら"http://www.asahi-net.or.jp/~uq9h-mzgc/blanche.html"で説明済みだ。これまた知名度の高い人物で、戦死した彼の葬儀が行われた際には敵であるオーストリア軍が弔砲を鳴らしたほど。歴史群像では王党派の女性との悲恋が紹介されていたが、彼の親戚によると実際には恋愛感情はなかったそうだ。あと雑誌では彼について「獅子」と呼ばれていたとも書いているのだが、これは何が論拠なのか不明。フルーリュスで彼が「獅子のように戦った」と報告された(Reimpression de l'ancien Moniteur"http://books.google.com/books?id=xc1nAAAAMAAJ" p94)のは確かなようだが。
 クレベールの左腕の近くに顔が描かれているのはカファレリ=デュ=ファルガ。彼についてはシェヘラザードさんのところに言及がある"http://www.geocities.jp/rougeaud1769/adieu.htm"し、私も前に少し触れた。絵をよく見れば分かるのだが、右足の義足もきちんと描かれている。ただ、カファレリはドゼーやクレベールほどの大物ではない。なぜ彼がこの絵画でこれほど大きく扱われているのか、その理由は不明だ。ジロデが単に贔屓しただけなのか、あるいは権力者だったボナパルトに媚びるべくエジプト遠征に参加した将軍たちを特別扱いしたのか。
 以上4人の背後に、顔だけ見える軍人たちが5人いる。ダンピエール、デュゴミエ、オッシュ、ジュベール、シャンピオネだ。ダンピエールは革命戦争初期に北方軍で戦った軍人。デュムリエの裏切りの後に北方軍司令官となったが、一ヶ月ほどで戦死してしまった。ジュマップの戦いなどで活躍し、将来を期待されていた人物だったようだ。デュゴミエについては日本語wikipediaで大雑把な話は分かる。ジュベールはボナパルトの下で頭角を現したが、1799年のノヴィの戦いで戦死した。
 彼ら3人はいずれも戦死だが、残る2人は病死。オッシュはフリュクティドールのクーデター支援などで政治にも積極的に関わっていたので、彼が生き延びていればボナパルトとの間で権力の取り合いが起きていたかもしれない。シャンピオネはナポリ侵攻を指揮したことなどで知られる。彼はボナパルトのクーデターを支持していたらしいので、こちらは生き延びていれば元帥への道が開けていた可能性がある。
 絵画の右端近くには背中を向けている額の後退した人物がいる。彼はラトゥール=ドーヴェルニュ。昇進を断って最前線で戦い続けた人物で、ボナパルトは彼を「共和国第一の擲弾兵」(Correspondance de Napoleon Ier, Tome Huitieme"http://books.google.com/books?id=6AJoAAAAMAAJ" p402)と呼んだ。その右に3人の軍人がいるが、こちらはデュフォー、キルメーヌ、マルボ。デュフォーはデジレ・クラリーの婚約者にもなった人物だが、1797年にローマで起きた暴動に巻き込まれて殺された。キルメーヌはボナパルトのイタリア遠征にも従軍していたが、病気のため1799年にパリで死去。マルボは1800年、ジェノヴァ攻囲の最中に病死している。
 右下のバラは1793年にヴァンデで死んだ少年兵だ。こちら"http://www.asahi-net.or.jp/~uq9h-mzgc/propaganda.html"でも少し触れているが、彼は王党派から「国王万歳と叫べば許してやる」と言われながら「共和国万歳」と唱えて殺されたという。彼が有名になったのはロベスピエールがその話を紹介し(La Feuille villageoise"http://books.google.com/books?id=_EgUAAAAYAAJ" p329)、彼をパンテオンに入れるよう提案したのが理由だろう。

 全体としてジロデの人選はそんなにおかしくはないが、右端のデュフォー、キルメーヌ、マルボあたりは少々苦しい選択のような気がする。ナポレオンの下で戦った者は比較的優遇されていると思うが、ボン将軍のようにシリア遠征で戦死したのに載っていない人物もいる。ダヴィドの描いた戴冠式の絵がそうであるように、この絵にも何らかの政治的配慮が働いていたのではないだろうか、と余計な憶測をしてみたくなる。

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