年明け早々だからという訳ではないが、たまにはナポレオン以外の歴史関係の話を。
あるblogの主催者が自分の卒論を掲載している"http://d.hatena.ne.jp/furukatsu/20081213/1229168946"。その議論の主題についてどうこういうつもりはないのだが、ちょっと気になったのが冒頭の一文。「大砲はルネサンス期に発明された」というのを読んで「あれ、それで良かったんだっけ?」と疑問が浮かんできたので、少し調べてみた。大砲の発明は中世末期であり、ルネサンスは中世より後だ、というのが私の認識だったので。
だが、これが調べれば調べるほど泥沼。一般的にはまず火薬が中国で発明され、大砲もその前段階を含めて中国からもたらされたというのが通説だと思っていたが、そうでもないようだ。アラブ人が真の火薬も大砲も発明したという説もあるし"http://www.history-science-technology.com/Articles/articles%202.htm"、火薬はともかく大砲は欧州人の発明だとの主張もある"http://mysite.du.edu/~jcalvert/tech/cannon.htm"。
遅くとも西暦1300年代前半には大砲(cannon)が戦場で使われていたのは間違いないようだ。たとえば1331年に北イタリア、フリウリ地方のチヴィダーレで使われ始めたと説明している例がある"http://muso.to/h-gijyutugasekaiwokaeru.htm"。ただ、wikipediaなどを見るとそれより早い例が沢山出てくるのが悩ましいところ。こちら"http://en.wikipedia.org/wiki/Cannon_in_the_Middle_Ages"では1248年に既にイスラム教徒がセヴィリアで大砲を使っていたと書かれているし、英国でも1327年にはスコットランド人相手に使われたとの話が載っている。
インドでも1200年代半ばには大砲が知られていたとの話がある"http://en.wikipedia.org/wiki/History_of_gunpowder"。中には1118年の時点でサラゴサにおいて火薬が使われた"http://www.nationmaster.com/encyclopedia/History-of-gunpowder"との話を載せているサイトもあり、ほうっておくと物凄い勢いで時代を遡ってしまいそうだ。どうもこの話は各地域のエスノセントリズムと結びついている可能性があるようで、信頼度を測るのが困難である。
その中で、一つ確認できそうだと思ったのが、こちら"http://en.wikipedia.org/wiki/Artillery"に書かれている中国の話。1132年1月28日に宋王朝の韓世忠"http://en.wikipedia.org/wiki/Han_Shizhong"将軍が雲梯"http://en.wikipedia.org/wiki/Escalade"と火銃"http://en.wikipedia.org/wiki/Huochong"を使って福建省のある町を奪ったという話が大砲の戦場での使用を示す最古の文献として残されている、というもの。本当にそんな史料があるのだろうか。
宋王朝の話だとすれば、可能性としては宋史に載っていることが考えられる。で、宋史列傳の韓世忠傳(卷三六四、列傳第一百二十三)を調べてみると福建省での出来事について触れているのはたった一ヶ所だ。そこを読んでいくと見つかったのが「設雲梯火樓」("http://www.hoolulu.com/zh/25shi/20songshi/t-364.htm"とか"http://www.yifan.net/novels/history/songshiytt/sshi364.html")というフレーズである。
おそらく「雲梯と火樓を設け」とでも読むのだろう。確かに雲梯の文字はある。だがその後に来るのは火樓であって、wikipediaに書いているような火銃(Huochong)ではない。火樓といえば、字面から考えると何らかの形で攻撃対象に火をかけるために使われる塔と解釈するのが普通だろう。映画「北京の55日」に出てきたようなやつが思い浮かぶ。しかし、この「火樓」という文字を見てそこから大砲を思い浮かべるのは、流石に無理があるんじゃないか。私は中国語に詳しいわけではないので間違っている可能性は十分にあるが、それにしても変な印象は拭えない。
実はwikipediaが参照しているのは宋史ではなく別の文献であるとか、宋史には別バージョンが存在してそちらには火銃と書かれているとか、そういった可能性も残っている。だからwikipediaの記述が間違いだと断言するのは無理。でもその記述に対する信頼度が少し低下するのは確かだ。あそこに紹介されている「大砲の歴史」は、特に古い時期のものについてはとりあえず眉に唾をつけて読んだ方がよさそうに思える。
コメント
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エントリー内容から少しずれますが、ぼくがナポレオン戦争に興味を持ったきっかけは、「戦争と平和」や「ワーテルロー」などの映画で騎兵突撃のシーンを見て疑問に思ったことです。というのも、日本史では、長篠合戦以降、騎馬突撃は時代遅れになったと教えていますし、西洋史でも、火器の登場で中世騎士は時代遅れになり、戦場では歩兵と砲兵が主役となって、そのまま現代に至る…ように解説されています。そのような先入観でナポレオン戦争の映画を見ると、相当に混乱します。
実際には、鈴木眞哉が力説しているように、中世騎士は時代遅れになったものの、新たに近代騎兵が誕生し、歩騎砲三兵科が揃った、としなければ無責任なわけです。日本史でも、騎馬武者と騎兵の区別ははっきりしてほしいものです。
2009/01/01 URL 編集
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騎兵と騎士の混同というのは、確かによく見られる現象ですね。騎兵突撃にしても、映画のように全力疾走する局面はほとんどなかったと思いますが、そうしたことも知られていません。要するに、全体として戦争の実像があまりにも知られていないのが現状なのでしょう。それはそれで「平和で良かったね」という結論にもなりますが、一方であまりに戦争に対して無知なのも怖い話です。騎馬武者と騎兵の違いが「常識」になるのは無理でも、区別のつく人が増えた方が望ましいことは確かでしょう。
2009/01/01 URL 編集
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戦争様式として銃の射程および前装式か後装式かというのが大きいですよね。19世紀後半まで銃の射程が数十メートルという時代です。第二次大戦でのポーランド騎兵は物笑いの種として有名ですが、その前の第一次大戦では東部戦線の兵員密度が薄く騎兵は比較的有効だったんですね。
中世騎士が無用になったと言うのはちょうどわが国の剣豪が戦場で無意味になったことと重なりますね。塩野七生の本で一万人のトルコ兵と戦う数百の騎士団というのがありましたが、生産力の増大が戦闘員の増加を促し、個人的武勇がものを言う時代が終わったということでしょう。
2009/01/01 URL 編集
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歴史を見ると兵士の「数」がものを言った時代と、数より「質」が問われる時代があったような気がします。ナポレオン時代などは明らかに数重視ですが、最近はむしろ質(武器とかも含めた)重視に移っているような印象がありますね。もっともテロとかゲリラ戦といったLICの部分ではやはり数が重要なのかもしれませんが。
2009/01/02 URL 編集
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大統領選挙に負けたマケインの記事を雑誌で読みましたが、ベトナム戦争での5年以上の捕虜生活を自分を見つめ直すいい機会だったと発言してるそうです。捕虜というピンチをチャンスに変える向こうのエリートが羨ましくなりました。
2009/01/03 URL 編集
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ただ、軍隊の数を増やそうとすればそれだけ経済活動にマイナスの影響が出るのも間違いありません。20世紀になって戦争が経済力まで含めた総合力での争いとなるに従い、戦場での数重視が国力を削ぐ結果につながっていったのではないかと。
マケインは共和党内でも独立独歩な人だったようですね。同じエリートでも、タフな経験を持っている人の方がいざという時は頼りになりそうです。米国の場合、1年以上に及ぶ大統領選を乗り切ることでタフさを身につけさせる仕組みになっているような気がします。
2009/01/03 URL 編集