オストラッハ・下

 敵がルフェーブル将軍の師団をかなりの激しさで攻撃しているのと同じ時、彼らはサン=シール将軍の師団の正面でも同様の攻撃をするべく前進し、そしてルフェーブル将軍への攻撃の直後にそこでも戦闘を始めた。午前6時にかけ、交戦は深刻化してきた。サン=シール将軍が師団の正面を守るためオストラッハ右岸のホーエンデンク、フェルコーゼン、ライスカーン、及びウルゼンドルフに置いた兵を、敵は全力で激しく攻撃した。彼らに対して使われた兵力の優位性ゆえに、彼らは[師団]主力へと後退することを余儀なくされた。
 1000から1200の騎兵、2個歩兵大隊、及び数門の大砲で構成されている敵の軍団がヘルベンティンゲンにいた。彼らはライトリンゲンの1個歩兵大隊及びいくつかの騎兵大隊に支援されていた。
 サン=シール将軍は参謀副官ドビリーに2個騎兵大隊と伴にドナウ左岸のリートリンゲン近くへ前進するよう命じた。この地点にいる敵を警戒させ、接近してきた部隊がリートリンゲン攻撃を企んでいる我が軍団の側面部隊の前衛であるかのように見せかけることが、この移動の狙いだった。
 ジグマリンゲン、ジグマレンゲンドルフ、そしてシェーアを占拠していた第108半旅団の1個大隊が同時にドナウ方面軍の左翼を支援し、参謀副官ドビリーの退路を確保した。この半旅団の第2大隊と軽砲兵3門、及び第2竜騎兵連隊の3個大隊は、ワルテル将軍の旅団を構成していた。この部隊はモンゲン前面のウルム街道上に、その街道を守るため布陣しておりヘルベンティンゲンの[敵]軍団を見張っていた。
 参謀副官ドビリーの移動はサン=シールがそれに期待していた効果を引き起こした。敵は敢えてリートリンゲンを失う危険は冒さず、ヘルベンティンゲンの軍団は動かなかった。私からオストラッハ前面で起きたことを全て伝えられ、敵が[サン=シールとルフェーブルの]2個師団の間を突破するのを妨げるべくルフェーブル将軍を支援するため可能な限り多くの戦力を右翼へ移動するよう命じられていたサン=シール将軍は、ルグラン将軍の旅団を動かして我々の兵が数時間前に撤退を強いられた村々からすぐにオーストリア軍を追い払った。この優勢を活用しようと切望した彼が、[敵の]側面を攻撃し、可能ならルフェーブル将軍の師団の前にいる部隊を迂回するためフリートベルクへ行軍する準備をしている時、彼はこの[ルフェーブル]師団がオストラッハの陣を放棄することを強いられ、プフレンドルフへ退却したことを知った。
 この情報は私の副官の一人によって確認された。副官は、サン=シール自身が右側から包囲されるのを防ぐよう布陣する必要性があることを指摘した。同時に彼に対し、メスキルヒを通ってシェーア下流でドナウ河に流れ込んでいる河の背後に退却せよとの命令を渡した。
 ルフェーブル将軍の師団の退却によって生まれた優勢を得た敵は、サン=シール将軍の右翼に数多くの増援を送り込んだ。我々の兵はオストラッハ川右岸にある村々から再び撃退され、将軍はその小川の左岸に彼の師団を集結させた。オーストリア軍はオストラッハ強行渡河のため準備をしたが、その準備は彼らの最初の移動にかかっており、加えて我々の兵たちの頑強な様子もあって、彼らはその企図を諦めた。そして彼らは左へ前進し、オストラッハの小川を彼ら自身で確保した渡河点で渡り、
サン=シール将軍の師団全てを迂回して彼のメスキルヒへの退却を遮断することを試みているように見えた。将軍はルグラン将軍にこの動きに追随するよう命じ、同時にワルテ将軍の旅団を支援するため右翼へ分遣隊を送り出した。
 にもかかわらず敵はサン=シール将軍の右翼への前進を続け、メスキルヒ街道上にあるフルピンゲン村を経由してその背後へと浸透し始めた。その時、将軍は第50半旅団の1個大隊と伴に参謀副官サリニーを派出し、その地点まで急ぎ移動し敵をそこから追い払うよう命じた。この士官はこの作戦を大いなる活力と判断によって実行し、師団の退路を確保した。退却は夜が近づいた時に素晴らしい秩序をもって行われた。
 サン=シール将軍がこの日の出来事に関する報告を提出した時、彼は師団の兵たちに大いなる賛辞を贈った。そして特に第8猟[騎兵]連隊と第5半旅団が名を上げたと付け加えた。彼はまたルグラン准将の才能と勇気について名誉となる言及をなした。ただ彼は、ルグランがサンブル=エ=ムーズ軍に仕えていた際に私に見せていた才能、武勇、そしてつつましさに関する好ましい見解を確認しただけだった。
 オストラッハの戦いの間、私は前衛師団の退却を守るためエルヌフ将軍をプフレンドルフの陣に送り出し、予備騎兵をその町の前面の平野に、砲兵を様々な陣に配置させようとした。オープール将軍にその命令を伝えた後で、彼は私の右翼、プルールゲンとファルデンブーレンの側で何が起きているか知るためリートハウゼンへ進んだ。そこで彼は、そこを通れば軍が完全に迂回されてしまうこの街道の重要性に気づいていたスーアン将軍がそこへ進んで朝からずっとそこに配置されていたデカーン将軍の縦隊に合流してしたことを発見した。
 プルールゲンに接近したデカーン将軍は、彼の部隊の一部をエフェンハウゼンの隘路へ派出した。彼はそこでオストラッハへ退却することができなかった前衛部隊の一部と合流し、これを保護した。この部隊は、虚しくもこの通路を手に入れようと試みた敵の縦隊に対し、この地とファルデンボイレンで抵抗した。夕方には彼らはプフレンドルフの宿営地へ退却した。
 この時点で私はフェリーノ将軍が攻撃されたかどうか知らなかった。しかしオストラッハ放棄を強いられたことにより、私は彼の師団をアシュに残しておくのが適切だと考えなくなった。そこにいたら彼らは左翼を迂回され、コンスタンス湖に追い落とされることすらあり得た。そこで私はオストラッハで何が起きたかフェリーノ将軍に伝え、他の軍と戦線を構築できるようザルスメノアイラーへ退却することを命じた。極めて多くの敵戦力と直面しながらも、この将軍は攻撃を受けなかった。敵はおそらく、翌日に正面と側面から彼を攻撃することでより有利な状況で戦闘をするべく、彼をひきつけ今の陣にとどまらせることを視野に入れて、成果のないいくつかの移動を行っただけだった。アシュ川とオストラッハ川を水源で通過した後に彼の軍をプフレンドルフ右翼数リーグのところに宿営させた大公の行動によって、この推測は正当化されるように思える
 この日の敵の損害は極めて大きかった。捕虜と脱走兵の証言によれば、死傷者と捕虜は4000人にのぼる。我々の損害は1400人から1500人を超えることはなかった。その大半は負傷者で、すぐにライン左岸へ運ばれた。我々はまた、砲車が破壊され移動させることができなかった大砲1門を失った。
 以上がこの記憶すべき日の実際の結果である。そして敵戦力の優位性を考えれば、これは名誉の点では最も輝かしい勝利と同等だと見なしてもいいだろう。また帝国軍兵士が既に我々の武勇を身をもって味わったと考えられることも付け加えざるを得ない。共和国兵はその勇気と大胆さにおいて優位にあることに気づいており、この交戦のあらゆる部分において最も尊敬すべき英雄的行為を成し遂げる能力があるとあまりにも確信していたため、ほんの些細な落胆すらおよそ感じることなく、その直近の努力によって恰も輝かしい勝利を得たかのように自らを祝福した。
Memoir of the Operations of the Army of the Danube, Under the Command of General Jourdan"http://books.google.com/books?id=5R42AAAAMAAJ" p147-170

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