オストラッハ・上

 以前、紹介した1799年戦役に関するジュールダンの本Memoir of the Operations of the Army of the Danube, Under the Command of General Jourdan"http://books.google.com/books?id=5R42AAAAMAAJ"。そこからオストラッハの戦いに関する部分を抜き出して翻訳してみた。長いので3回に分けて載せる。


 [芽月1日、3月21日]午前5時、私はルフェーブル将軍からの手紙を受け取った。彼は自分の前哨線があらゆるところで攻撃されたと知らせた。そして彼が受け取った報告によると我々は本格的交戦を予期しなければならなくなった。
 私はすぐ第2師団を指揮しているスーアン将軍に、半旅団1個と軽砲兵1個中隊を前衛師団増援のため派出するよう命じた。そして、オストラッハ川及びアシュ川の水源間の隘路を突破し我々の右側から我々の陣を迂回することで、全面的な交戦を起こすのが敵の計画であると予測した。私は同将軍[スーアン]にこれらの隘路を防御するため部隊を派遣するよう命じた。彼はこの作戦をデカーン准将に委ね、第2戦列半旅団、第1竜騎兵連隊、そして大砲2門がその麾下に入った。この縦隊はプフルーゲンとヴァルトボイレンへ向かった。
 必要とあれば前衛部隊の退却を守るため、予備騎兵をプフレンドルフの平野に集めるようオープール将軍に命じた。川、沼地、森が錯綜したこの地の地形は騎兵の交戦にはとても不向きで、この軍団をより効果的なやり方で使うことを許さなかった
 私はサン=シール将軍に、師団を集め戦闘に備えるよう命令を記した。右翼にある森を守るために特段の労力を使うことでルフェーブル将軍の師団から離れてしまうことがないよう、そして敵がルフェーブル師団を我が物としてしまうことを防ぐよう特に命令した。彼は、攻撃の準備をしているオーストリア軍を有利に迎え撃つため必要な配置をしていると返答した。彼はまた、左翼の部隊が彼らに割り当てられた目的地である、ジグマリンゲンの下流でドナウ河へ流れ込んでいる小川へ到着することができなかったため、その陣を守るため、及びジグマルドルフへと兵を派出することを余儀なくされたとの理由で、彼の師団の戦力が大幅に減少したことについて言及した。
 私はまたその時点での状況についてフェリーノ将軍とも連絡を取ったが、彼の司令部はマルクドルフにあり、結果として迫りつつある戦いでとても活動的な役割を果たすには場所が遠すぎた。彼の師団は軍から派出されており、ある程度区別された軍団を形成していた。彼は状況に応じて行動するよう命じられており、彼に特別な指図をすることは私の権限には含まれていなかった。
 おそらく、私の兵力の少なさを考えるなら、オストラッハの戦いにおけるあらゆる作戦を視野に入れて、私はこの師団を軍から離れたところに置いておくべきではなかったと思われる。しかし一方で彼らは最も重要な街道を確保しており、それがラーフェスブールからマルクドルフ、ザルスメンスファイラー、さらにはプフレンドルフまで通じていること、そしてまた敵が私の右翼に大軍を展開しているとの極めて確かな情報を受け取っていたことを踏まえるなら、それを放棄することはとても軽率である。その軍団を見張り、側面を守ってエルヴェティー軍との連絡線を保持するために1個師団を充当することを、どうしてやめられただろう。
 これらの様々な命令を出したうえで、私は軍の参謀部を指揮するエルヌフ将軍と伴に前衛部隊の宿営地へと前進した。午前7時頃に到着したところ、ルフェーブル将軍はそこで起きた事件と彼が行った布陣について正確に説明した。
 フリートベルクの向こう側にある前哨地点は午前1時に赤い外套の群れに襲撃され、ダヴィズファイラーの森の上流部分へ後退することを強いられた。同時に義勇兵6個大隊がボルシュテルンの背後に布陣していた夜警部隊を攻撃した。これらの街道を守っていた第25軽歩兵半旅団は引き続いてダヴィズファイラーへ退却し、その後で一部はオストラッハへ、一部はイッコーゼンへ、そして他の一部はアインハルトへ、この重要な3拠点を守るため後退した。
 この半旅団は、午前2時に始まり7時までかかったこの退却時に成し遂げた目覚しい活躍で名を馳せた。
 第25半旅団と同じ部隊を組んだ第1猟騎兵連隊と第4ユサール連隊は、軽歩兵を支援しながら、最高の秩序をもってその作戦行動を実行した。
 この移動の後、第25軽歩兵半旅団の大半は陣地につき、ルフェーブル将軍の師団の前面に展開した。ドルーアン少佐麾下の4個中隊は、敵の接近から守るためにオストラッハ橋とその村の先頭に配置された。他の10個中隊はオストラッハ左岸に沿って展開し、ファンゲンとアインハルトからモーゲンブーフへ通じる道路を守るため、同時に左翼へと伸びていた。
 第4ユサール連隊、第1猟騎兵、及び第17竜騎兵はオストラッハの背後から右翼側に配置された。これらの兵はクライン将軍が指揮した。――第57半旅団の1個大隊は密集縦隊を組み、軽歩兵4個中隊を支援するためオストラッハの背後に置かれた。同半旅団のもう一つの大隊はイェッカセンの村を守るため、その向かいにある森の位置に戦闘隊形で整列した。第53半旅団の1個大隊は森の近くに予備として配置され、布陣を延ばした。軽砲兵とその輸送部隊はいくつかの砲列を敷き、オストラッハ村に接近する敵の側面に位置することで村への接近路を守った。
 ルフェーブル将軍は陣を守るため、第53半旅団の1個大隊、第25軽歩兵半旅団の4個中隊、第5ユサール連隊の3個大隊、第5猟騎兵の1個大隊、第17竜騎兵の2個大隊も当てにしていた。
 参謀副官フォンテーヌが指揮するこれらの兵は、[前日]夕方にホスキルヒへと送られていた。彼はオストラッハへ後退するよう命令を受けた。しかし敵が村の入り口で割り込んできたため、彼はフランス軍とオーストリア軍双方の射撃に挟まれた。自身を完全な敗北に晒さずに通過することを企てられなかったため、彼は自らの縦隊を敵から隠してくれる霧を利用し、オストラッハ川を右岸に沿って遡ったが利用可能な開口部がなく、リートハウゼンまで前進することを強いられた。そこで敵の一縦隊と交戦した後で、私が朝方道路を守るため派出した第2師団の兵と合流した。危険で困難、そして尋常ならざる冷静沈着さと偉大な勇気を必要としたこの退却は、参謀副官フォンテーヌと第1猟兵半旅団の将軍である市民サユーク、第53半旅団の指揮官である市民ヴァンデルマンにとって無限の名誉となった。しかしながらこの事件はルフェーブル将軍の師団を弱体化させ、我々の防衛手段を低め、敵の成功を助長した。
 以上が、私が戦場に到着した時になされていたルフェーブル将軍による見事な配置だった。敵の圧倒的優勢にもかかわらず、もし深い霧がその全ての動きを隠して彼らが攻撃を差し向けた地点に対する時宜を得た支援ができる力を我々から奪っていなければ、我々はおそらく陣を持ちこたえることができたに違いない。

スポンサーサイト



コメント

非公開コメント

トラックバック