おやすみロシニョール

 前にヴァンデ戦争の歴史についてまとめたSavaryの記述に問題があることを指摘した。原史料からの引用がいささか不適切だったという点で、その例として示したのがクレベールの文章。ただしこれは引用のやり方が拙いという指摘であり、正しく引用さえすればクレベールの証言が全て信頼できるということは意味していない。一例を挙げよう。

 1793年9月2日、ヴァンデに到着したマインツ部隊の作戦について討論する会議がソーミュールで開かれた。問題になったのは、マインツ部隊をソーミュールから西進させるか、それともロワール河下流のナントから南下させるべきかという点だ。ソーミュールにはラ=ロシェル沿岸軍の一部がおり、ナントにはブレスト沿岸軍がいた。この議論は、どのような作戦が望ましいかという点だけでなく、ラ=ロシェル沿岸軍とブレスト沿岸軍によるマインツ部隊の取り合いという側面もあったようだ。
 クレベールはこの会議に参加したメンバーとしてラ=ロシェル沿岸軍から派遣議員4人、将軍7人が、ブレスト沿岸軍から派遣議員と将軍計5人、そしてマインツ部隊から計3人が参加したと述べている(Kleber en Vendee"http://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k111939x" p106)。マインツ部隊を自分たちの側に引き込もうとしていたラ=ロシェル沿岸軍にとって、都合のいい配分になっていたという訳だ。
 しかしそれに反論したのがブレスト沿岸軍の参謀長ヴェルニュ。彼は作戦決定のための投票に参加する権利はなかったものの発言は認められ、ナントから攻撃を行う方が優れている点を諄々と説いた。ラ=ロシェル沿岸軍の将軍たちのうち、これに賛意を表したのがサーブル=ドロンヌ師団を率いていたミースコウスキであり、サロモンも同意したが投票ではどちらにも入れないと証言した。加えてラ=ロシェル沿岸軍の司令官ロシニョールが投票時にベッドに入ってしまっていたため、ソーミュール説の支持者は当初見込まれていた11人から8人まで減少。ナント支持者はミースコウスキを含めて9人に達し、こちらの作戦が採用されたという(p112)。

 クレベールに従えばなかなか劇的な展開を見せた会議なのだが(というか寝るなよロシニョール)、実はクレベールはこの会議に参加していない。彼自身、会議が開かれた時にはマインツ部隊の前衛を率いてアンジェまで移動していたと述べており、会議に参加していなかったことは明らかである。おそらくヴェルニュから会議の内容を聞いたのではなだろうか。つまり、これは二次史料なのだ。
 一次史料はないのか。Kleber en Vendeeをまとめた人物が、脚注でラ=ロシェル沿岸軍の派遣議員で会議にも参加したシューデュー回想録"http://books.google.com/books?id=GMsJAAAAIAAJ"のp427-428から引用している(Kleber en Vendee, p113)。それを見ると、クレベールが紹介する話とは随分違っていることが分かる。
 シューデューによると投票の際、10人の将軍たちのうち7人はソーミュールからの進撃を、カンクロー(ブレスト沿岸軍司令官)、ミースコウスキ、オーベール=デュバイエ(マインツ部隊司令官)の3人はナントからの進撃を支持した。一方、10人の派遣議員のうち7人はナントからの進撃を支持し、ソーミュールからの前進を求めたのはリシャール、フェイオー、シューデューの3人だけだったそうだ。
 シューデューは「7人もの将軍が支持している作戦(ソーミュール経由)が優勢だ」と考えたが、派遣議員フィリポーが反対し、会議の議長を務めていたルーベル(マインツ部隊の派遣議員)が決めるべきだと主張。その説が容れられてルーベルの支持するナント経由で前進する作戦が採用されたという。「この地で戦ってきた7人もの将軍たちの見解より、弁護士たちの作戦の方が好まれたのだ」とシューデューは嘆いている。

 果たしてシューデューとクレベールのどちらが正しいのだろうか。普通に考えれば当事者であるシューデューの方がクレベールより信頼されるべきだろう。そしておそらく、今回のケースでも一次史料の方が二次史料より正しい。9月3日付で公安委員会へ書かれた報告書を見れば、そのことが分かる。

「ヴァンデにいるマインツ軍の派遣議員から公安委員会へ。
 ソーミュール、1793年9月3日(受領は9月6日)
 ルーベルが、公安委員会によって承認された8月27日付派遣委員の布告の結果として、前日9月2日に開かれた作戦会議の公式記録を送ってきた。参加したのは派遣議員がルーベル、メルラン(=ド=ティオンヴィル)、リシャール、シューデュー、ブールボット、テュロー、カヴェニャック、メオーユ、フィリポー、リュエル及びフェイオー。そして将軍たちがロシニョール、カンクロー、シャルボ、ムヌー、サンテール、オーベール=デュバイエ、サロモン、デュ=ウー、レイ、ミースコウスキ及びデンバレールだった。まず最初に派遣議員たちは将軍たちと議論することができる完全な権利を持つことが定められた。続いて議長にルーベルが、書記に行政評議会長官[?]のラ=シュヴァルディエールが選ばれた。長い討論の末に、以下の議題について採決が行われた。マインツ守備隊はソーミュールとナントのどちらへ行軍すべきか? 『22人の投票者のうち、市民ブールボットは意見を述べる立場にないと宣言した。デンバレール将軍はソーミュールとナントのそれぞれに同時に行軍することを求めた。市民ルーベル、メルラン、テュロー、カヴェニャック、メオーユ、フィリポー、リュエル、カンクロー、オーベール=デュバイエ及びミースコウスキはナントへ前進すべきだとの見解であり、市民リシャール、シューデュー、フェイオー、ロシニョール、ムヌー、デュ=ウー、サンテール、サロモン及びレイはソーミュールへ行軍すべきだと考えていた。シャルボ将軍については、同時にソーミュールとニオールへ行軍することに投票した。以上の結果により、10票がナントへ、そして10票がソーミュールへ向かうことを支持しており、どちらも多数にはならなかった。再び議論が始まり、長い討議の末に、将軍たちが互いに協力して計画を定めその日の夕方に会議に諮ることを決めた。会議は午前[?]4時に中断し、夕方まで延期された。夕刻になると将軍たちは、マインツ軍はナントへと行軍すること、そして計画実行のため翌日には集結し連携して行動すべきだとの意見であることを発表した。将軍たちの見解は13対3の票数で承認された。(反対した3人はシューデュー、フェイオー及びシャルボである)』」
Recueil des actes du Comite de salut public, Tome Sixieme"http://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k492684" p262-263

 投票結果がクレベールの言う9対8ではなく、10対10に分かれたことが分かる。もっともその後はシューデューの説明とは異なり、議長の判断ではなく将軍たちだけで改めて討論が行われ、そこでナント経由の前進が発案されて会議で了承されたという展開になっている。SavaryのGuerres des Vendeens et des Chouans contre la Republique Francaise, Tome Deuxieme"http://books.google.com/books?id=7vchAAAAYAAJ"(p90-92)を読んでも同じ内容だ。
 要するにクレベールの紹介している話は、ここではあまり信用できないということ。つまりロシニョールは会議が終わる前にベッドへ行くような真似はしなかったのである。良かった良かった。

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