承前、ドルーオ演説の続き。
偵察報告によると、会戦後に敵は二つに分かれたことが判明しました。英国軍はブリュッセル街道を移動し、プロイセン軍はムーズ河へ向かいました。騎兵軍団と第3及び第4歩兵軍団の先頭に立ったグルーシー元帥が、後者の追撃を委ねられました。皇帝は英国軍がたどった道を、第1、第2及び第6軍団と帝国親衛隊を率いて追撃しました。
先頭にいた第1軍団は何回か敵の後衛部隊を攻撃して崩壊させ、夜まで彼らを追撃しました。夜になって敵はモン=サン=ジャン村の背後にある高地に陣取り、その右翼をブリュイネ村まで、左翼をワーヴル方面へはっきりとしない距離まで伸ばしました。天候は酷い状態でした。皆、敵は輜重隊がソワーニュの森を通過する時間を稼ぐために布陣したのであり、夜明けには自らも同じ移動[退却]をするだろうと信じていました。
夜明けになっても敵が同じ場所にいるのが判明しました。天候はぞっとするような状態で、道路があまりに様変わりしてしまったためその地で砲兵を機動させるのは不可能でした。[午前]9時頃、風が地面を少し乾かすようになり、正午に攻撃を行うことが皇帝によって命じられました。
数日間の行軍で疲労した兵たちを布陣させた敵を攻撃し、大規模な会戦をすることが必要だったのか、それとも彼らに疲労から回復する機会を与え、敵が静かにブリュッセルへ交代するのを許すべきだったのでしょうか?
もし我々が幸運だったならば、多くの支持者が我々を呼んでいる敵の首都からほんの数リュー[リーグ]の距離しかない時に、退却する敵を追撃しないのは許しがたい失敗であると、あらゆる兵は言明したでしょう。
しかし幸運の女神は我々の努力を裏切り、かくして会戦を行ったのは極めて軽率な行動であったように見えてしまいました。歴史がより公正な判断を下してくれるでしょう。
第2軍団は正午に攻撃を行いました。ジェローム公の指揮する師団は敵右翼正面に位置する森を攻撃しました。彼らは最初は前進し、押し返され、数時間もの執拗な戦闘の後でようやくそこを完全に占拠しました。
左翼を主要街道に置いた第1軍団も同時にモン=サン=ジャンの家々を攻撃し、そこに腰を据え、敵の陣地まで達しました。2個軍団を指揮していたネイ元帥は自ら主要街道上にいて、状況に応じて軍の移動を指揮していました。
元帥は戦闘中に、敵の中央に攻撃を集中し、その間に敵が守りきれていないと見られる大砲を騎兵で奪うつもりだと話しました。私が彼に命令を伝えた時に、彼は何度か我々は大勝利を得るだろうと言いました。
しかし英国軍の左翼に合流したプロイセン軍団が我々の右翼を覆い、夕方5時半前後に攻撃を始めました。16日の戦いに参加しなかった第6軍団が彼らと対峙するべく配置され、若年親衛隊の1個師団と親衛隊のいくつかの砲列が支援しました。7時頃、我々の右翼方向遠方に、大砲とマスケット銃の砲火が見えました。我々は、グルーシー元帥がプロイセン軍の移動に追随し、勝利に参加するべくやって来たのだと疑いませんでした。我が戦線全域で歓喜の声が聞こえました。8つの戦闘[?]で疲労していた兵士たちは活力を取り戻し、さらなる努力を重ねました。皇帝は今こそ決定的な時だと判断したようです。彼は全親衛隊を前進させ、4個大隊にモン=サン=ジャン村近くを通過し敵の陣地へ進んで銃剣でもって抵抗するものを全て排除するよう命じました。親衛騎兵と他の手元に残された全騎兵がこの移動を支援しました。高地にたどり着いた4個大隊は、マスケット銃と散弾の恐るべき斉射に迎え撃たれました。戦列を離れた多くの怪我人が、親衛隊は壊走したのだと信じさせる要因になりました。パニックは近くの部隊に広がり、彼らは大慌てで逃げ出しました。この混乱に気づいた敵の騎兵が平野へ解き放たれました。彼らはいまだ退却していなかった老親衛隊12個大隊によってしばらく支えられましたが、親衛隊自体も説明しがたい動きに巻き込まれ、秩序は維持しながらも逃亡兵の動きに追随することになりました。
砲兵の全車両は街道に殺到しました。彼らはすぐに酷い渋滞を起こし、移動することは不可能になりました。多くは道路上に放置され、兵士たちによって荷馬を外されました。
全てがシャルルロワとマルシエンヌの橋へと殺到し、そこから残った者はフィリップヴィユとアヴァーヌへ向かいました。
以上が災厄の日に関する説明です。本当ならフランス軍の栄光を満たし、敵のあらゆる虚しい望みを断ち切り、そしておそらくフランスがとても望んでいた平和を近いうちにもたらした筈でした。しかし、神は異なる決断を下しました。神は多くの大惨事の後で、我らの不幸な祖国を再び国外からの破壊に晒すことを望んだのです。
(後略)
La verite sur les cent-jours"http://books.google.com/books?id=rb-y5A7Wp5kC" p133-141
なおここではリュシアン・ボナパルトの著作から引用したが、google bookによれば1815年の時点で既にL'Ambigu"http://books.google.com/books?id=ViQDAAAAYAAJ"(p16-21)や、Supplement au Recueil de decrets, ordonnances..."http://books.google.com/books?id=eqtWAAAAMAAJ"(p309-314)などに、この演説内容が紹介されていたようだ。
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