ドルーオのディスクール、って書くと何だか現代思想っぽく見えるな

 ワーテルロー関連の史料として時々紹介されるのが、ドルーオ伯の演説と呼ばれるものだ。ワーテルロー会戦から戻ってきたドルーオが貴族院に召集され、そこで戦役の経緯について説明している。時期が古く、本人もまだ記憶が比較的鮮明に残っている時期に語られたものなので、それだけ重要な史料だと言っていいだろう。その中身はネット上でもあちこちで見つかるのだが、とりあえずリュシアン・ボナパルト著のLa verite sur les cent-jours"http://books.google.com/books?id=rb-y5A7Wp5kC"に掲載されているもののワーテルロー戦役関連部分を翻訳してみた。そこそこの長さなので、今回は前編を。


 1815年6月23日
 ドルーオ伯:皆さん、職務ゆえに昨日朝は貴族院を訪れることができなかったため、この議場で行われた発言について私は新聞を通じてのみ知り得ました。そこで見た我が軍の栄光を傷つけ、我々の災厄を誇張し、残された手段を過小評価するような発言には悲しみを覚えます。これらの発言が、その偉大な価値と軍事的知識によって何度も国家的表彰にふさわしい活躍をした著名な将軍によってなされたことが、私にとっては何よりも驚きでした。元帥の意図が不当に理解されたこと、彼の考えが悪意を持って聞かれたのに違いないと私は信じます。今朝行った彼との会談からも、私が間違えていないことは確信できました。
 皆さん、私はこの極めて短く、極めて不幸な戦役で起きたことについて、つたない言葉ではありますが敢えて話すことをお許しになるようあなた方に願います。私が何を考え、何を恐れ、何を望んだかを述べましょう。私は率直に話すつもりです。皇帝に対する私の愛着は疑い得ないものではありますが、何よりも私は我が祖国を愛しています。私は熱狂的にわが国の栄光を愛しており、そしてどのような感情であっても私に真実を裏切らせることはできないでしょう。
 フランス軍は6月15日に国境を越えました。軍はいくつかの騎兵軍団、6つの歩兵軍団と帝国親衛隊で構成されていました。6つの歩兵軍団は以下の者たちに指揮されていました。

第1はデルロン伯
第2はレイユ伯
第3はヴァンダンム伯
第4はジェラール伯
第5はルマロワ伯
第6はロボー伯

 軍はサンブル河のこちら側でいくつかの散兵と遭遇し、彼らを打ち破り、400―500人の捕虜を得ました。そして軍は河を渡りました。

第1及び第2はマルシエンヌ=オー=ポンで
軍の残りはシャルルロワで

 後方に残った第6軍団は、ようやく翌日になって渡河を実行しました。
 軍はシャルルロワからフルーリュス街道を前進しました。ヴァンダンム軍団は[午後]4時頃に、馬匹とともにフルーリュス街道を抑えていたいくつかの大砲に支援された歩兵と騎兵8000―1万人で構成されていると見られる敵師団を攻撃しました。
 この師団は打ち破られ、歩兵の方陣は我らの騎兵によって崩壊し、そのうちの一つは完全に刃の下に切り伏せられました。
 一連の騎兵突撃の中で、フランスは勇敢で尊敬に値する戦友だった皇帝の副官、ルトール将軍を失いました。(ここで将軍はしばし発言を止めた。彼の目からいくつかの涙がこぼれた)
 翌朝、我々の前哨線はフルーリュスへ行き、フランス軍は我らが20年前に最も素晴らしい軍事的偉業に輝いたフルーリュスの平地に入りました。敵軍はサン=タマンとリニー村の背後にある斜面に布陣していました。右翼はサン=タマンからそれほど遠くないところまで延長しているように見え、左翼ははっきりとリニーの向こうまで伸びていました。
 正午頃、砲兵に支援された第3軍団の歩兵が[サン=タマン?]村を攻撃し、村の前にある森を占領し村の一角へ突入しました。
 すぐに彼らは強力に押し返されました。新たな砲列に支援されて彼らは再び攻撃を開始し、いくつかの極めて執拗な試みの後で、ついにプロイセン兵の死者と負傷者でいっぱいの村を占拠しました。
 この間、第4軍団はリニー村を攻撃しました。彼らはそこで多くの抵抗に出会いましたが、それでも頑強に支援された攻撃が行われました。
 敵がこちらの視界内と斜面に配置した砲兵に対する砲撃を行うため、砲列は二つの村の間にある空間を全て占めました。
 私はこの砲撃が我々の有利に展開するのを安心して見ていました。我々の砲列を守ろうとしていた兵たちは移動して地面の起伏に隠れることで何の損害も受けませんでした。一方、敵の兵は、砲列の背後の斜面に密集して布陣させられており、徹底的な破壊を蒙りました。我々が完全にリニー村を占拠するや否や予備を峡谷の向こうにある敵の陣地に送り込むことが、皇帝の狙いのようでした。
 この機動はプロイセン軍左翼を完全に孤立させ、それを完全に我々のものにしてしまったでしょう。作戦を実行する時は[午後]4時から5時の間にやっと訪れましたが、その時我々のはるか左翼方向で第1及び第2軍団の先頭に立っていたネイ元帥が、正面に極めて多くの英国軍を迎えて支援を求めていることが皇帝に知らされました。陛下はその2個軍団を支援するため、老親衛隊の猟兵8個大隊と予備砲兵の一団をサン=タマン村の左翼へ向かわせるよう命じました。しかしすぐにこの増援が必要でないことが判明し、彼は軍が突破を予定していたリニー村へ部隊を呼び戻しました。親衛擲弾兵は村を通り抜け、敵を崩壊させ、軍は勝利の歌を歌いながら峡谷の背後へ、最も美しい軍事的偉業を成し遂げたばかりの戦場へ進出しました。
 この偉大な勝利の日を記念するどのような戦利品が他にあったのか分かりませんが、私が見たのは同じ場所に集められたいくつかの軍旗と24門の敵の大砲でした。
 あらゆる状況において、私はこの時ほどフランス兵がより高貴な熱狂とともに戦ったのを見たことはありません。彼らのエラン(活力)、彼らの重要さは大きな希望を抱かせるものでした。翌朝、私は戦場を視察しました。そこは敵の死者と負傷者によって覆われていました。
 皇帝は負傷者に支援と慰めを与えるようにしました。特に彼らを集めるための士官たちと兵士たちも残しました。
 農民たちはフランス軍の負傷者を極めて丁寧に運びました。彼らは急いで手助けをしてくれました。しかし、彼らが多くの憎しみを抱いているようであったプロイセン兵を移動させるためには、手伝いを強いるよう脅す必要がありました。

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