ベルトラン命令

 google bookをあまり当てにしすぎると拙い、というお話。

 Napoleon Seriesの中にワーテルロー戦役におけるグルーシーに焦点を当てた記事"http://www.napoleon-series.org/military/battles/1815/c_grouchyorders.html"が掲載されていた。ネット上で確認できる史料を使った記事であり、それ自体は面白い取り組みでもあるが、利用している文献が英語ばかりというのが少し気に入らないところ。グルーシーに関する話を書くなら、フランス語文献抜きだと説得力に乏しいのではないか。
 それはともかく、この記事中ではベルトランがナポレオンの口述命令を筆記した"Bertrand order"が重要だと指摘している。グルーシーは6月17日に右翼軍を指揮するよう口頭で命令されたのだが、その後になって改めてどう行動するべきかを文書で伝えてきたのがこの"Bertrand order"だそうだ。この後、グルーシーがナポレオンから文書で命令を受け取るのは18日の午後まで(つまりワーテルローの戦場へ来援することが不可能な時間まで)なかったため、この命令の内容は確かに重要な意味を持つ。
 だが、それほど重要な命令文なのに、その存在が知られるようになったのは1842年だという。ワーテルローから27年も後のことだ。そりゃいくら何でも遅すぎやしないか。果たして本当にワーテルロー戦役時に存在したものなのか、それとも後になって誰かがでっち上げた史料なのではないか。そう思ってgoogle bookを調べてみた。
 "Bertrand order"の中にあるRendez-vous a Gemblouxというフレーズで検索をかけて最も古い文献を探してみると、Relation succincte de la campagne de 1815 en Belgique"http://books.google.com/books?id=a0wUAAAAYAAJ"(p18)という本にぶつかる。著者は、よりによってグルーシーだ。以前、18日午後1時に出された命令について「最初に出てきたのはグルーシーの書いた本の中かもしれない」と指摘したことがある"http://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/38802958.html"。もしかしたらそれと同じなのだろうか。
 そうではない。よく見れば分かるのだが、グルーシーの本が出版されたのは1843年。"Bertrand ordre"が最初に世に出たのはその前年の筈だ。グルーシーの本が出るより前にベルトランが筆記した命令の内容は明らかになっていたのである。それを記した本の題名はNotice biographique sur le marechal de Grouchy"http://books.google.com/books?id=vrasHAAACAAJ"、著者はPascalletなる人物だ。この本はgoogle bookに入っている(閲覧はできない)にも関わらず、なぜか検索で引っかかってこない本なのである。
 このPascalletの本に"Bertrand order"が掲載されていることを含め、一連の経緯はJohn Codman RopesがThe Campaign of Waterloo"http://www.archive.org/details/campaignofwaterl00roperich"のp355-361で指摘している。当初、グルーシーはナポレオンから口頭の命令しか受け取らなかったと主張していたが、1839年に出版された本"http://books.google.com/books?id=8zcQAAAAYAAJ"の中でジョミニが"Bertrand order"の存在を指摘(p188)。さらに1842年にPascalletがその文書を出版した段階で、グルーシーも諦めたかのように自らの本でその存在を認めたという。
 google bookの検索結果だけでは、なかなかそうした詳細な経緯までは分からない。google bookが森羅万象を網羅している訳ではないのだからこうした現象が起きるのも当たり前ではあるのだが、それでも便利なツールだけにそうした問題があることを時々忘れそうになってしまう。注意するようにしなければ。

 で、ついでにそのPascalletの本に載っている"Bertrand order"の和訳を。

「パジョル将軍の騎兵軍団、第4軍団の軽騎兵、エグゼルマン将軍の騎兵軍団、本来の[第6]軍団から派出されるので特に扱いに気を遣うべきであるテスト師団、及び第3と第4歩兵軍団とともに、ジャンブルーで合流せよ。ナミュール及びマーストリヒト方面を偵察し、敵を追撃せよ。彼らの行動を解明し、彼らが何をしようとしているか私が見抜くことができるよう、その移動について私に報告せよ。私は今朝の時点で英国軍が引き続きとどまっているキャトル=ブラへ司令部を移す。従って我々の連絡線は舗装されたナミュール街道を通ることになる。もし敵がナミュールから撤収するなら、いくつかの国民衛兵大隊といくつかの砲兵中隊をシャルルモンで編成してナミュールを占領するよう、シャルルモンの第2軍管区の指揮官に書き送るように。彼はこの部隊の指揮を准将に委ねること。
 敵が何をしようとしているかを見抜くことが重要である。彼らは英国軍から離れようとしているのか、あるいはブリュッセルとリエージュを守るため、新たな会戦に運命を託すべくなお合流することを意図しているのか。いずれにせよそなたの2個歩兵軍団の距離を絶えず1リュー以内にとどめ、夜間は常にいくつかの退却路を持つ優れた軍事的拠点を確保するように。司令部と連絡が取れるよう中間に騎兵分遣隊を配置せよ。
 リニー、1815年6月17日
 参謀長不在により、ベルトラン大元帥に対して行われた皇帝陛下の口述」
The Campaign of Waterloo, p358

 グルーシーが1843年に出版した本に載っている文章とは微妙に異なっている。

スポンサーサイト



コメント

非公開コメント

トラックバック