クラウゼヴィッツ1815

 クラウゼヴィッツの記したワーテルロー戦役に関する著作の英訳を読了。Daniel Moranなる人物が翻訳したもので、しばらく前までネット上からダウンロードできたのだが今はもう無理かもしれない。書かれた時期などは不明だが、文中に挙げられている参考文献などから判断するに、かなり古い時期(もしかしたら1820年代前半)に書かれたものだと思われる。
 ワーテルローの戦いに関する戦略的分析が中心となっており、あまり歴史書という印象はない。あくまで軍人が自分の専門分野に関する先行事例を調査したという体裁。そりゃ確かにクラウゼヴィッツにとっては将来の戦争に備えることが第一であり、歴史的な事実を細かいところまで追求する目的はあまりなかっただろう。米国の金融当局者が今後の対応を考えるために日本のバブル崩壊事例について調べるようなものだ。歴史に関するこまかい論争について彼の見方を知りたいと思って読んでも、少し落胆することになる。

 冒頭からしばらく、クラウゼヴィッツはナポレオンや連合軍が開戦前に抱いていた戦略についての分析と批評を延々と続けている。戦争に備え、大きな戦略を立案すべき立場の人間にとってはこの部分が重要なのだろう。ただ、後世から見ると推測も含めた彼の記述はいささか長くてくどい。何しろナポレオンが部隊を集め始めるまでに全文の5分の1を費やしているのだ。それだけ長いのに、印象に残っているのはウェリントンの英連合軍が広範囲に分散していたことに対してクラウゼヴィッツが批判的であった、という程度だ。このあたりは著者と私の関心のズレが原因だろう。
 戦役開始時点においてクラウゼヴィッツは、ウェリントンが14―15日夜の時点でシャルルロワ南方にフランス軍が集結しつつあることは把握していた筈だと見ている。ただ、15日朝にツィーテンが攻撃を受けたとの報告をウェリントンが受け取ったのは「15日夕方」(p23)と、ここはウェリントン側の主張をそのまま受け入れている。ツィーテンの発した伝令はもっと早く到着した筈だとの見方がプロイセン側から出てくるようになったのは、もしかしたらもっと後の時期だったのかもしれない。
 16日昼の時点では、ウェリントンもブリュッヒャーもプロイセン軍の目前にフランス全軍が集結していると勘違いしていた、とも指摘している。そのためウェリントンは妨害されずにリニーへ増援に訪れることができると思っていたし、そのウェリントンの約束をプロイセン側も信用した。だが実際にはネイの左翼軍が存在したため、ウェリントンの行動は妨害された、という訳だ。
 そのネイに対するセント=ヘレナのナポレオンの批判について、クラウゼヴィッツは疑問を呈している。ネイが部隊の一部をプロイセン軍右翼へ向けて派出することで勝利を決定的にするというアイデアは、リニーの戦闘がかなり進展してから生まれたものであり、ネイは16日朝の時点からそれを求められていたのではない、というのがクラウゼヴィッツの主張。確かに、彼がGamotの本から引用している司令部の命令書を見る限り、プロイセン軍を包囲するように動けと最初に命じたのは同日午後2時に出した3つ目の命令からであり、正直命令を出すタイミングとしては遅い。
 第1軍団の彷徨については、ナポレオンの命令によるものではないと見なしている。ナポレオン自身の命であれば彼らが接近した際にナポレオン自身がそれを敵と見間違えることはあり得ないし、ヴァンダンムの第3軍団が混乱したことも説明できない、というのが理由だ。このあたりは異論が多々あるので何とも判断がつかないところではあるが、クラウゼヴィッツの説明にも一理あることは確かだ。
 キャトル=ブラのネイについては、「彼の任務はウェリントンがプロイセン軍を応援できないよう彼を牽制することだった」(p49)と指摘。途中で変化したナポレオンの命令(ブリュッヒャーの右翼背後に回り込む)は実現性がなく、ネイはできることはきちんとやったと評価している。これについては全く同感なのだが、なぜかワーテルロー関連本でそう指摘しているものは多くない。ネイに対する批判が時に行き過ぎていることを示す一例だろう。
 他ではあまり見かけない指摘としてもう一つ、ジラール師団に関する話がある。本来はレイユ第2軍団に所属していたジラール師団は、15日の行軍中に軍団主力から離れてリニーに接近。16日にはリニーで戦い、大損害を蒙ったため17日以降はそこにとどまったとされる。クラウゼヴィッツはそれに対し、彼らは「明らかに忘れられて」(p54)置き去りにされたと主張している。確かに16日にはロボーの第6軍団がどうも存在を忘れられて戦いに参加できなかったようだし、同じことがジラール師団に起きた可能性もないとは言えない。本当かどうかは不明だけど。
 18日のワーテルロー会戦については、昼過ぎにプロイセン軍の接近を目撃していたのになぜ第6軍団をもっと防御しやすい地点、具体的には「フリッシェモンとパジョー」(p61)を結ぶ線まで前進させなかったのかと疑問を呈している。Bernard Coppensに言わせれば「なぜならフランス軍は本当は攻撃を受けるまでプロイセン軍の接近に気づいていなかったから」という結論になるのだろう。クラウゼヴィッツはそこまでは言っていないが、フランス軍の布陣に彼が疑問を覚えているのは事実だ。
 そして、一番興味深い指摘は、リニーの戦い後になぜナポレオンが主力をもってブリュッヒャーを追撃しなかったのかというもの。プロイセン軍を徹底して叩けばおそらくウェリントンは戦うまでもなく退却する可能性が高いし、たとえ彼らが前進してシャルルロワを奪ったとしても「シャルルロワがパリなら」(p84)大問題だったかもしれないがそうでない限り影響は少ない。そもそもナポレオンは1813年のドレスデンの戦い後にも、1814年のマルヌ河畔の一連の戦闘後にも「同じ間違いをしている」(p85)、というのがクラウゼヴィッツの指摘だ。
 敗北した敵を徹底的に追撃することで敗北していない敵も退却に追い込む、というやり方が本当に適切なのかどうかは分からない。少なくともナポレオンはクラウゼヴィッツ御推奨の方法ではなく、一方の敵を破った後で他方の敵に向かう「各個撃破」を過去に多用してきたし、それで成功したこともある。クラウゼヴィッツ的手法が成功した事例として私がすぐに思い浮かべられるのは1796年のカール大公なのだが、これはこれで「ジュールダンは倒したもののモローは逃がした」と批判されることもある手法だ。
 クラウゼヴィッツにとっては1806年戦役におけるフランス軍の壮絶な追撃の印象こそが最も強いのだろうが、あれはイエナとアウエルシュタットで複数の敵を一気に打ち破った後だからこそできたことかもしれない。それでも歴史のifとして、リニーの戦い後にナポレオンがプロイセン軍を全力で追撃していたらどうなっていたかを考えるのは、なかなか面白そうではある。

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コメント

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RAPTORNIS
この本はAmazon.frで仏訳版を購入しました。ドイツ語が読めないぼくとしてはフランス語でもありがたいのですが、英訳が読めるのであればもっとありがたかったです。
先日のクラウゼヴィッツ本の記事でもコメントしましたが、何冊かの原書の抜粋をより集めるくらいなら、こういう本を1冊まるごと翻訳してくれれば嬉しいのですが、クラウゼヴィッツの場合だと、どうしても“兵法家”というイメージが先行した本ばかりになりそうですね。最近、書店でクラウゼヴィッツ関係の本が山積みになっていますが、ナポレオン戦争の背景をろくに知らずに書かれた本ばかり目立ちます。

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desaixjp
私が読んだ英訳には、残念ながら原著がどういうものなのか(ドイツ語からの直訳なのか、あるいはフランス語あたりからの重訳なのか、出版年はいつで第何版に相当するのかなど)一切説明されていなかったので、Raptornisさんの持っているものとどこまで同じなのかはよく分かりません。確かにフランス語よりは読みやすいですけど、そのあたりは多少不安も残ります。
クラウゼヴィッツの著作についてはクラウゼヴィッツ協会あたりが全訳を準備しているというような話を昔聞いた気がするのですが、多分気のせいだったのでしょう。彼の思想を調べるうえで、彼が自ら経験したナポレオン戦争についてどう考えているかを把握することは重要だと思うのですが、そう考えていない人が多いんでしょうね。
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