伝説の根っこ

 ボナパルト将軍がニースにあるイタリア方面軍司令部に着任した時、マセナやオージュローをはじめとした将軍たちが彼を出迎えた、という「伝説」があることは「1796年3月27日 ニース」"http://www.asahi-net.or.jp/~uq9h-mzgc/g_armee/nice.html"で紹介済みだ。その中でChandlerの"The Campaigns of Napoleon"からの一節を引いている。

「マセナは書いている。『すぐ後に彼が将軍帽を被ると、まるでその姿は2フィートも大きくなったように見えた。彼は我々に師団の位置、各部隊の熱情と実働兵力について質問し、どのように行動するかを指示して、翌朝には閲兵を行いその翌日に敵を攻撃すると宣言した』」
Chandler "Campaigns" p56

 Chandlerはどこからこの一文を引用したのか何も記していない。前に海外の掲示板でこの件が話題になった時も、引用元が分からないとの書き込みがあった。だが、最近はネット上の情報が充実してきたおかげでこの謎にも答えが発見できるようになった。いやまったくもってネットは広大だ。Chandlerの元ネタ、それはこれである。

「彼[ボナパルト]がイタリア方面軍に到着した時、将軍たちの誰一人として彼のことは知らず、そしてマセナが私に話してくれたところによると、最初に司令官のところを尋ねた際にも彼らはほとんど感銘を受けなかった。小柄で体つきが弱々しかったことも、好意を引くものではなかった。手に妻[の細密画?]を持って皆に示したことも、何よりその極端な若さも、この任命がやはり政略の結果に違いないと将軍たちを信じ込ませることになった。『しかしその直後、彼が将軍用の帽子を被ると、まるで2ピエ[1ピエは約32.5センチ]も大きくなったように見えた』とマセナは付け加えた。『彼は我々に師団の位置と装備、各部隊の士気と兵力を問い質し、我々に進むべき道を示し、翌日には全部隊を検分したうえで2日後には戦闘を行うため敵に向かって行軍する、と宣言した』。彼は将軍たちに向かってかなりの威厳、明確さ、及び天賦の才を示しながら話たため、彼らは遂に真の指導者を得たのだと確信しながらその場から引き下がった」
Mes souvenirs sur Napoleon"http://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k49997n" p204-205

 この本の著者はJean-Antoine Chaptal"http://fr.wikipedia.org/wiki/Jean-Antoine_Chaptal"。ナポレオン政権で1800年から1804年まで内務大臣を務めた人物である。さて、この本は一次史料になるのだろうか。
 Chaptalは政治家であって軍人ではない。従って彼が現場に居合わせたとは思えない。Chaptalが書いたから一次史料だ、と言うのは無理だろう。だが、政権中枢にいた人物としてマセナから話を聞く機会はあったと思われる。発言者を特定したうえで書かれている部分については一次史料と言っても構わないだろう(インタビューを一次史料と見なすようなものである)。
 問題は、一次史料といってもピンキリなこと。まずChaptalの本が出版されたのが1893年と随分遅いのが問題になる(本人ではなくその子孫が出版した)。早い時期に出た本なら信用してもいいだろうが、遅いものはよほど特殊な事情がない限り、どうしても信頼性には劣る。
 だが最大の問題はマセナが話したとされる内容そのものにある、マセナは最初にボナパルトのところを尋ねた際には何の感銘も受けなかったと話しているが、そもそもここがおかしい。彼とボナパルトは初対面ではなかった筈だからだ。彼らは既にツーロンの時に肩を並べて戦っているし、その翌年にはマセナがイタリア方面軍師団長、ボナパルトが同砲兵指揮官としてやはり一緒に戦っている。マセナは当然、ボナパルトのことを知っていたと考えるべきだろう。
 裏付ける証拠もある。「1796年3月27日 ニース」でも触れているが、マセナは司令部に着任したボナパルトに宛てた手紙の中で「私が閣下の軍事的才能に対して長い間正当な評価をしてきたことはご存知でしょう」と述べているのだ。以前からボナパルトのことを知っていたからこそ、「長い間」彼の能力を評価することができたのである。なおこのマセナの手紙は1809年に出版されたCorrespondance inedite officielle et confidentielle, Italie. Tome Premier"http://books.google.com/books?id=D2sPAAAAQAAJ"のp23に掲載されており、Chaptalの本より出版時期は80年以上も古い。
 何よりChaptalの本のどこにも「マセナがニースでボナパルトを出迎えた」とは書いていない。書かれているのは「ボナパルトがイタリア方面軍に到着した時」という文章だけ。Chaptalの本を論拠にマセナら将軍たちがボナパルトをニースで出迎えたと主張することはできないのだ。元ネタを探し当てた現在でははっきり言えるが、Chandlerの主張は残念ながら裏づけに乏しい。
 なお、Chandlerは実際にはChaptalの本を読んでいないと思われる。でなければ「マセナは書いている」などとは記述しないだろう。Chaptalが記しているように「マセナが話したところによると」という表現になる筈。要するにChandlerがその本で引用したこの文章は、どこかの二次史料から引っ張ってきたものなのである。

 Chandlerの引用した文章が証拠にならないのは分かったが、それではこの「伝説」はいつ頃から語られるようになったのだろうか。Chandler以前にもMacdonnellなどが紹介しているので20世紀前半には「伝説」が既に存在していたことは間違いない。問題は、そこからどこまで遡れるかだ。私が探した限りでは、遅くとも1860年出版の本には「伝説」が掲載されている。

「ボナパルトは1796年3月27日にニースの司令部に到着した。そこには給料も支払われず、パンも衣服もないが、勇気と経験は装備していた軍隊と、その指揮官たちであるマセナ、オージュロー、ラ=アルプ、セリュリエ、ミュラ、ジュベールらがいた。彼らは当初は27歳にも満たないこの軍司令官に対してほとんど好意を持たずに対応した。しかし彼が自らの計画を彼らに示すと、マセナは会議を去る際にオージュローに言った。『我々は本物の指導者を見つけた』」
Abrege de l'histoire de France"http://books.google.com/books?id=uCdPTMhejDUC" p340

 一読しただけで「ボナパルトの副官として彼に同行してイタリアへ来た筈のミュラが、どうしてマセナたちと一緒に名前を挙げられているんだ」とツッコミを入れたくなる文章だ。要するにおよそ信頼性に乏しい記述なのだが、なぜだかこの本以降もいくつもの本で(登場する将軍たちの名に異同はあるものの)同じ話が繰り返されている。この本の著者がでっち上げたのか、それとも先行する「嘘つき」がいるのかどうかまで確認はできないが、こういう法螺話が消えることなく語られ続けている現実は何とも情けない。
 さらに遡ると、以下のような文献も見つかる。

「これらの言葉はとても力強い確信と熱情と伴に語られたため、最古参の隊長たちですら26歳の将軍の約束にもはや何の疑いも抱いていなかった。ラ=アルプ、オージュロー、セルヴォニ、そして特にマセナは、苦い失望を抱きながらではあったが、彼らのロアーノでの勝利を忘れたかのような宣言を聞くことができた。彼らが絶えず示した沈黙、服従、そして従順さは、ボナパルトが初対面の時点で彼らを支配していたことを告げていた」
Histoire de France, Tome Treizieme"http://books.google.com/books?id=WJ0FAAAAQAAJ" p151

 冒頭の「これらの言葉」とは、例の「諸君を世界一の沃野へ連れて行こう」という布告のことである。この布告自体がセント=ヘレナでナポレオンがでっち上げたものではないかと言われているのだが、この本の著者であるCharles Lacretelleはその布告に対して部下の将軍たちがとりたてて文句を言わなかったことを理由に「ボナパルトが初対面の時点で彼らを支配していた」と推測をしている。もしかしたら、後の時代の誰かがこのLacretelleの「推測」を勝手に「事実」と見なし、それがさらに「マセナたちがニースでボナパルトを出迎えた」という「伝説」につながったのかもしれない。

 ナポレオンのでっち上げから後世の人物が推測を積み上げ、その推測を事実と見なした別の誰かがさらにそれに辻褄を合わせるため新たな「伝説」を作り上げる。おまけにそれを補強するかのような(しかし中身をよく読めば怪しいことがすぐに分かる)「一次史料」が後から出版される。多くの人間が関わった一連の偽装作業を経て、この「伝説」が出来上がったのだろう。しかしながらそれは、はっきり言ってただの捏造に過ぎない。しっかりした裏づけが一切存在しない、でも世の中に広まることだけは成功したミームである。

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