ムッシュとシトワイヤン

 ちと遅れたが、ナポレオン漫画の感想。まずジョゼフィーヌが登場するたびに若返っているように見えるのは仕様だと割り切っておくことにする。あとポリーヌの髪の毛はどうして黒ではないのだろう。両親も兄も黒なんだし、史実"http://en.wikipedia.org/wiki/Image:Pauline_Bonaparte_2.jpg"も黒だしなあ。作者はあまり女性を描くのが得意ではないそうだから、キャラ付けのためにやっているのかもしれない。
 それにしても今月は時間が遡る展開。前号に載っていたフリュクティドールのクーデターは1797年9月の事件なのだが、ポリーヌとルクレールの結婚は同年6月14日"http://fr.wikipedia.org/wiki/Pauline_Bonaparte"。そしてベルナドットがイタリア方面軍に赴任したのは同年1月4日だ(Six "Dictionnaire Biographique..." Tome I. p81)。結局リヴォリ戦役には間に合わなかったものの、フリウリ戦役には参加している。作者はジュノーのシーンを描くために彼の登場を遅らせたのだろう。

 さてそのベルナドットとボナパルトの初対面の際に刺青の話が出てくるが、これは史実でなさそうだと以前に指摘したことがある。1833年5月10日、パリのパレ=ロワイアルで、ある喜劇が上演された。フランスの古参兵が昔なじみのスウェーデン王ベルナドットを尋ねるという話で、その中に古参兵がかつてベルナドットの腕に刺青をしたと昔話をする場面がある。それを受けたベルナドットは、腕まくりして革命的なモットーの書かれた刺青を見せる。
 この件についてはDumbar Plunket Bartonが色々と調べている。詳しい内容は彼のThe Amazing Career of Bernadotteのp346-347や、Bernadotte; The First Phase"http://www.archive.org/details/bernadottefirst00bartiala"のp481-482などを読んでもらうといいだろう。Bartonの結論としては、ベルナドットが刺青をしていたかどうか判断することはできないが、現在伝えられている「ベルナドットの刺青話」は根拠に乏しいということだ。
 実際、私が探してみたベルナドットの刺青話に、1833年より前に遡るものはなかった。1836年の本には彼が「共和国万歳(Vive la republique)!」と記した刺青をしていたという話が載っていた(Annales de medecine belge et etrangere, Tome Deuxieme"http://books.google.com/books?id=CRoUAAAAQAAJ" p77)し、1860年の本によれば「自由、平等さもなくば死を(Liberte, egalite ou la mort)!」と書かれていたことになる(Oeuvres completes de madame Emile de Girardin"http://books.google.com/books?id=eaEGAAAAQAAJ" p229)。
 Bartonによれば、他に「自由かさもなくば死を(Liberte ou la Mort)」とか「国王に死を(Mort au Rois)」といった文言が彫りこまれていた、との説もあるらしい。要するにどんな言葉を刺青にしていたのかどうかすらはっきりとしていないのだ。より明白な証拠が見つからない限り、この件は1833年に演じられた演劇を機会に広まった根拠のない逸話だと判断すべきだろう。

 漫画の場面に戻るとベルナドットがぶつぶつ呟く場面で「オッシュにも抜かれちまった」と言っているが、これまた妙な話。ベルナドットの昇進時期を見ると1794年2月に少佐(chef de bataillon)、4月に大佐(chef de brigade)、6月に准将、10月に将軍へと一気に階級を駆け上っているのだが、これはいずれもオッシュの昇進よりほぼ1年遅れている。オッシュは1793年の5月に少佐、9月に大佐から准将、10月に将軍となっている。抜かれているどころか、オッシュの方がずっとベルナドットの前を走っているのだ。このへんも作者のマジックと考えるべきだろう。

 もう一つ、ブリュヌの部隊とベルナドットの部隊の間で起きた騒ぎについても史実がどうだったか調べておこう。これの元ネタはティエボーでほぼ間違いあるまい。Memoires du general Bon Thiebaultには以下のような話がある。

「多くは南フランスの地域から徴集されていた昔からのイタリア方面軍兵士たちは、自らを市民の軍だと任じていた。彼らはライン方面軍を『ムッシュたちの軍』と呼んでおり、ベルナドット師団がラインから到着するや否やこの名を彼らに当てはめた。彼ら[ベルナドット師団]の整った出で立ち、その規律、士官に対する兵士たちの敬意などは、敵を倒すこと以外の義務を知らない[イタリア方面軍の]兵士たちとは実に対照的だったが故に、一層嫌われる理由になった。マセナ師団の兵士たちは、その愛国心では誰にも譲るつもりはなかったが、決して統制の取れた連中ではなかった。唯一、彼らの将軍[マセナ]のみが彼らに規律を守らせるだけの敬意と畏怖を得ていた。その時、彼は講和の準備について総裁政府に伝えるべくパリに向かっていた。留守の間ブリュヌが指揮を執ったが、彼は我々の兵士たちのような連中の手綱をしっかり握るに十分なほど厳格ではなかった。ベルナドット師団と接触するや否や、彼らは相手を挑発する目的で『ムッシュ』という言葉を使い始めた。すぐにいくつかの争いが始まった。混乱を収めるため双方から士官が派遣されたが、争っている連中を分けるどころか彼らは部下たちの味方をした。既に100人以上が倒れ、そのうちマセナ師団が嘆かねばならない者は少なくとも60人に及んだ。両方の部隊が集まり始め、双方が銃剣を構えて互いにぶつかりあう恐れも出てきた。呼集のドラムが打ち鳴らされ、全兵士は宿営地へ押し込められた」
Memoires du general Bon Thiebault, II"http://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k201548m" p102-103

 まずブリュヌはあくまで臨時の指揮官だったことが分かる。そして「ムッシュ」という言葉を使ったのは(漫画とは異なり)マセナ師団の側。要するにマセナ師団が喧嘩を売り、ベルナドット師団はそれを買った訳だ。被害者数はティエボーによれば約100人。漫画に出てくる「死者50人、負傷者300人」という数字がどこから出てきたのかは不明である。

 という訳で「いつ出るかいつ出るか」と待ち構えていたベルナドットの登場回は、割とあっさり終了。むしろジュノーの方に焦点が当たる展開であった。ま、連載が続く限りベルナドットの登場機会はまだあるだろうから、今後に期待しよう。カルノーだってあんなに大化けしたんだし。

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コメント

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bernaret
こんにちは。いつも面白く読ませて頂いています。
死者50人、負傷者300人の記載は、D.Bartonの書いたBernadotte; the first phase, 1763-1799のp221にも同じ記述があります。Bartonは他の書物の引用を明記していませんが、元は同じと思われます。

No title

desaixjp
ご指摘ありがとうございます。調べてみたらBarton以前にも1813年出版の本"https://books.google.co.jp/books?id=JX0DAAAAYAAJ"にこの数字が載っていました(p327)。著者はサラザン"https://en.wikipedia.org/wiki/Jean_Sarrazin"となっています。ただサラザンが母語であるフランス語で書いたと思われる史料は見つかりませんでした。
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