Alexander Mikhailovsky-Danilevskyの"Russo-Turkish War of 1806-1812"にはいくつもの戦闘が紹介されている。ただ読んでいると分かるのだが、ロシア軍とオスマン帝国軍の戦い方は終始一貫、というかワンパターンの繰り返し。ナポレオン戦争の特徴である様々な隊形変換といった融通の利く戦い方はしていない。
まずロシア軍だが、彼らの対応はいつも同じだ。野戦の場合は歩兵が方陣を組み、その間や背後に騎兵が展開する。大砲は歩兵と一緒に方陣内部に組み込まれ、おそらくは人間堡塁としてオスマン帝国軍の攻撃に対し火力を浴びせることを目的としている。騎兵の役割は多分、機動力のない方陣の間をつないで戦線を維持し、相手の動きに臨機応変に対応することにあるのだろう。
この戦い方はボナパルト将軍がエジプト遠征時にマムルーク相手に実行したのと同じだ。というより、おそらくはボナパルトがロシア軍やオーストリア軍の対オスマン帝国戦争について学んだうえで採用したと考えるべきだろう。マムルークの場合、主力は騎兵であって騎馬砲兵のような機動力のある大砲を持っていた様子はない。方陣にとって最大の敵である騎馬砲兵がないのだから、この戦術を採用するのはある意味当然だ。
とはいえ、マムルーク相手のやり方がオスマン帝国軍主力相手にそのまま通用すると考えていいのかどうかには疑問もある。オスマン帝国にはシパーヒという騎兵もいるが、一方で有名なイェニチェリは騎兵でなく歩兵。また、この時代には西洋風の軍隊を作る試みもオスマン帝国内で実施されていた。彼らの戦いぶりはどうだったのだろうか。
結論から言うと、Mikhailovsky-Danilevskyの本を読んだ限り、オスマン帝国軍の戦い方はよく分からない。しばしば出てくる表現として白兵戦用の武器を使って攻撃を仕掛けてくるという場面があるのだが、それが騎兵によるものか、そうではなく歩兵が刀を振りかざして前進してきたのか、そこまで書いている場面がほとんど見当たらないのだ。
騎兵による攻撃とか、イェニチェリによる攻撃と記されているところはある。だが、騎兵はともかくイェニチェリがどんな攻撃をしていたのかはよく分からない。本に掲載されている図版を見る限りイェニチェリが火器を持っている様子はないので、だとすれば白兵戦用の武器で戦ったのかもしれないが、一方でイェニチェリが防御時に射撃をしていたように読めるところもあるので、断言するのは難しいだろう。
西洋風にマスケット銃を持たせたニザーム=ジェディードと呼ばれる兵士たちもいた筈だが、彼らがどう戦ったのかが分かる場面もない。自分たちと同じ火力を持った歩兵を相手にすればいくらロシア軍でもワンパターンではいられなかったと思うのだが、少なくともこの時期のロシア軍は一度も戦い方を変えていない。オスマン帝国軍は敗北を繰り返しながらも改革を怠っていたと見るべきだろう。
何度も敗れ、領土を次々と奪われながらも古い戦い方に固執した理由はどこにあるのか。イェニチェリがただの軍隊ではなく政治的勢力になっていたことも考えるのなら、そうした政治的思惑が改革を妨げたと考えるべきだろう。実際、本を読むとこの対ロシア戦争の最中にイスタンブールでは何度もクーデターが起き、スルタンが相次いで交代している。対外戦争より国内の権力争いの方が重要だったということか。
それではオスマン帝国軍はいつもやられっぱなしだったのか、というとそうでもない。彼らの得意とする戦い方は、野戦築城してそこに立てこもるという方式だ。もちろん、既にある要塞を使って抵抗するのも一つの手だ。ボナパルトがアッコーでやられたのと同じことをロシア軍も何度かやられている。
例えば1809年のブライラ強襲ではプロツォロフスキー率いるロシア軍の攻撃が5000人近い死傷者を出して撃退されている。絶望に陥ったプロツォロフスキーは膝をついて頭をかきむしりながら嘆き、傍にいたクトゥーゾフが「もっと悪いことが起きることもある。私は欧州の運命を決めたアウステルリッツの戦いに敗北したが、それでも嘆くことはなかった」と何だかよく分からない慰めを言ったほど。
前に紹介したカメンスキーはもっと酷い損害をルセで出したことは指摘済み。また、野戦築城で頑張った例としては1809年のタタリッツがある。Mikhailovsky-Danilevskyによればオスマン帝国軍は塹壕や堡塁を用意し、イェニチェリも射撃を行ってロシア軍に抵抗。ロシア側指揮官だったバグラチオンは攻撃失敗に激怒したそうだ。
ただ、オスマン帝国軍が労力を注いで作り上げた野戦築城がそのまま収容所となってしまうこともあった。1811年、クトゥーゾフはドナウ左岸にオスマン帝国に橋頭堡を築かせたうえで逆渡河を行い、この橋頭堡を包囲するのに成功。大軍が敵中に取り残されたオスマン帝国はロシアとの講和に大きく傾いたという。
拠点にこもるオスマン帝国軍にロシア側はどういう隊形で攻撃を仕掛けたのか。どうやら野戦築城に対しては相変わらず方陣を基本に対応していたらしい。野戦築城の場合、オスマン帝国軍が堡塁を出て逆襲に出る場面も多かったからこの方法が使われたのだろう。上に述べたタタリッツでは逆襲したオスマン帝国軍がロシア側の方陣を取り囲む場面もあった。
一方、さすがに要塞攻撃の時には方陣ではなく縦隊を採用した模様。カメンスキーによるルセ強襲時には「8列の深さつまり中隊正面の縦隊」を組んだと書いている。これが具体的にどういう隊形なのかは正直よく分からないが、方陣でないことは確かだ。ロシア軍は対オスマン帝国戦争を、方陣と縦隊だけで乗り切ってしまったようである。
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