C調スパイ大作戦

 前回紹介したスパイ話の中にDave Hollinsの文章"http://www.ospreypublishing.com/articles/napoleonic/the_hidden_hand_espionage_and_napoleon/"もあった。彼はこの文章の中で第一次イタリア遠征だけでなく1800年の第二次イタリア遠征、1805年戦役、さらに1806年戦役の話を書いている。全体にHollinsはスパイの役割を過大評価している傾向があるのだが、特に1806年戦役に関する話は問題が多い。
 Hollinsによればナポレオンは過去の成功故にスパイを信用しすぎたのだという。金次第でどうにでも動くスパイたちは、実は金によってはナポレオンに偽情報を伝えることだってある。その例が1806年戦役だというのがHollinsの説だ。
 同年10月12日、ツァイツに到着したミュラの下に、フランスのスパイだと自称する人物が姿を現した。ミュラは彼をナポレオンの下に送り、このスパイはナポレオンに対して「プロイセン軍はエルフルト近辺に集結している」との情報を伝えた。それ以前からエルフルト近辺に敵がいると判断していたナポレオンはこの情報を信用し、それを前提に部隊の展開を進めた。主力はイエナ方面に、そしてナウムブルクからアウエルシュタット方面にはごく一部の部隊のみを送ったのである。
 ところが実際にはプロイセン軍主力はアウエルシュタット方面に向かっていた。ナポレオンが振り向けた主力はプロイセン軍の一部(ホーエンローエ)のみと相対し、ダヴー第3軍団がほぼ倍に及ぶプロイセン軍と戦う羽目に陥った。ナポレオンは後にこの件でベルナドットを批判したが、本当の責任はプロイセン主力のいる位置を間違えた帝国司令部にあるのは確かだろう。そして、帝国司令部が過ちを犯した理由としてHollinsが唱えているのが「スパイが嘘をついた」説である。

 Hollinsは、スパイがエルフルトからツァイツまで情報を伝えるのに際してアウエルシュタットを経由して移動したのではないかと推測している。「[イエナ付近にあるプロイセン軍の]戦線を何度も行き来するのは不可能だっただろうから、これがおそらく唯一の可能なルート」というのがHollinsの考え。そして、アウエルシュタットを通ったスパイは、そこでプロイセン軍主力の存在を目撃していた筈だとしている。だがスパイはナポレオンに「欠落のある情報」を伝え、そのために皇帝は間違ったターゲットへ向かって行進してしまった。
 この説は果たしてどの程度、妥当なものなのだろうか。まず気になるのが「スパイがエルフルトからアウエルシュタット経由でツァイツへ行った筈」というHollinsの想定の蓋然性だ。確かにイエナ付近にはプロイセン軍がいたためにスパイの通行は困難だったと思われるが、だからといってアウエルシュタット経由のみが唯一のルートという保証はどこにもない。もっと北方を大きく迂回した可能性だってあるし、極めて重要な情報なのでエルフルトに戻れないことを覚悟の上でイエナを突破してきたことも考えられる。決してHollinsの言うような「唯一」の可能性ではない。
 しかし、それは些細な問題だ。もっと決定的な間違いは「10月12日時点でアウエルシュタット近辺にプロイセン軍主力は存在していなかった」ことにある。イエナ戦役におけるプロイセン軍の動きを詳細に紹介しているFrederic Natusch MaudeのThe Jena Campaign 1806(元ネタはおそらくLettow Vorbeck)を使ってプロイセン軍主力の行動を追跡してみよう(同書p85-103)。
 10月6日時点で主力軍はエルフルトより西方のアイゼナッハやゴータ付近に展開。9日になっても彼らはエルフルト近辺におり、ブリュッヒャーの騎兵部隊にいたってはアイゼナッハ北東にいて、ザーレ川右岸に展開しているフランス軍からは遠く離れていた。シュライツでタウエンツィーンが敗北したとの情報が伝わった10日になって慌てて司令部(ヴァイマール南方のブランケンハインにあった)は全軍をヴァイマール近辺に集める命令を出したが、この命令は同日夜になってようやく各部隊に到着する有様だった。
 命令を受けたプロイセン軍は11日の朝から移動を始めたが、積極的な行軍でヴァイマール郊外までたどり着いたのはブリュッヒャーとリュッヘルの部隊くらい。エルフルト近辺にいた主力部隊はヴァイマール東方3マイルのウムプフェルシュテットまでしか前進しなかった。そして、その主力部隊にアウエルシュタット経由で北方へ向かうようシャルンホルストが命令を下したのは翌々日の13日午前10時。同日夜になってようやく主力軍はアウエルシュタット付近にたどり着いたのである。
 もうお分かりだろう。Hollinsが指摘しているように12日以前の時点でアウエルシュタット付近にいるプロイセン軍主力を目撃することは不可能なのだ。何しろ彼らはその時点でまだアウエルシュタットに到着していなかったのである。主力に対する移動命令が出たのは13日の午前10時。12日の段階では主力部隊はまだヴァイマール近辺にいたと考えるべきだろう。
 エルフルトとツァイツの距離はイエナ経由でもナウムブルク経由でも80キロ弱。情報の伝達にはどうしても時間がかかるだろう。12日までにツァイツに情報を伝えるために11日を丸ごと移動に充てたとしても不思議はない。その場合、スパイが持っていた最新情報は10日夜の時点でのプロイセン軍の位置ということになり、エルフルトに主力がいるという情報は実は正確だったことになる。プロイセン軍の位置はその後になって変化したのだ。
 Hollinsは強引な推測を前提にナポレオンがスパイに騙されたという説を唱えた。だが、たとえ彼の強引な推測(スパイはアウエルシュタット経由で移動し情報を伝えた)が正しいとしても、それはスパイが嘘をついた証拠にはならない。その程度のことはこの時期のプロイセン軍の移動を調べればすぐに分かることだ。要するにこのHollinsの文章は僅かな手間をかけることすらせずに怪しげな説を主張している訳であり、だとすると1806年戦役だけでなく他の時期に関する記述も同様に信頼性に乏しいと考えた方がいいという結論になる。

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