黒い森と中立領

 承前。革命戦争期におけるフランス軍によるドナウへの侵攻には大きく二つの障害が存在したことが分かるだろう。一つは物理的障害、つまりシュヴァルツヴァルトだ。伝統的侵攻ルートとされ、実際に1796年にはラン=エ=モーゼル軍右翼が、1799年にはドナウ軍が、そして1800年にはサン=シールやサント=シュザンヌらがこの山地を乗り越えて進軍しているが、これは決して楽なルートではなかった。
 Herbert H. Sargentは「山地[シュヴァルツヴァルト]の南と西側[即ちフランス側]は岩だらけで険しい」「僅かな道がそこ[シュヴァルツヴァルト]を通り抜けているが、それは山の裂け目に存在しており、そのため兵士たちの通行は困難だ」(Sargent "The Marengo Campaign 1800" p65)と指摘している。1796年にモローの主力軍が北方から、1800年にはやはりモローの軍勢の一部が南方からシュヴァルツヴァルトを迂回したのも、そうした困難を少しでも回避するためだろう。
 シュヴァルツヴァルトを乗り越えるにせよ、迂回するにせよ、その後でフランス軍はシュヴァルツヴァルトの北方か南方に姿を現すのが通例だった。いや、より正確に言うなら、ほとんどの場合、フランス軍はシュヴァルツヴァルト南方に姿を見せた。1799年も1800年も彼らは結局コンスタンス湖とドナウ河の間にやって来たし、1796年にもフェリーノはこの方面に姿を現している。北方から回り込んだ事例は、実は1796年の一回しかない。
 もう一つの障害はもちろんプロイセン領アンスバッハとバイロイトだ。こちらの政治的障害は物理的障害よりもはるかに厄介だったようで、フランス軍は結局ナポレオンが蛮勇を奮うまでこの障害を乗り越えることはできず、迂回するのが精一杯だった。ドナウに近づくことすらできなかった1799年戦役を除くと、1796年も1800年もフランス軍はプロイセン領によって形作られた隘路を通ることを強いられており、結果的にいずれの戦役でも彼らはドナウまでたどり着いていない。

 こうした状況を踏まえた上で、マックの判断について改めて見てみよう。まずは伝統的なシュヴァルツヴァルトからの侵攻を彼が予測していったことについて。
 マックがシュヴァルツヴァルト、特にその南方を警戒していたであろうことは、彼の部隊展開を見れば分かる。10月3日時点で彼の部隊のうち、イェラチッチ軍団の大半はコンスタンス湖の北岸や東岸に、シュヴァルツェンベルク軍団はコンスタンス湖とドナウ河の間に、さらにクレナウの前衛部隊は1799年や1800年に激戦地となったシュトックアッハ近辺にいた(The Ulm Campaign"http://www.archive.org/details/ulmcampaign180500mauduoft" p103-104)。オーストリア領であるティロルとの連携も含め、シュヴァルツヴァルト南方を彼が重視していたのは間違いないだろう。
 そして実際、革命戦争期にフランス軍が繰り返し進出してきたのがこの方面だったのである。カール大公が全力でこの方面にいるフランス軍を叩きに出た1799年戦役は成功したが、この方面を軽視したクライは1800年戦役でフランス軍から回り込まれそうになり、ウルムへの退却を強いられた。フランス軍がどこから侵攻するか分からない状態で、とりあえず過去の事例に学ぼうとするなら、コンスタンス湖とドナウ河の間に大兵力を集めたマックの判断がそれほど悪いとは思えない。

 また、ウルムという「位置取り」を彼が重視したのは、1799年及び1800年戦役の経過を知っていたからだとも想像できる。そもそもウルムの要塞化に取り組んだのは1799年戦役においてドナウ流域の部隊を指揮したカール大公である。彼はウルムの重要性を見抜き、1799年戦役の時にはフランス軍に先んじてこの地を確保するのに全力を挙げた。カールの軍事面での師であったマックがウルムを重視するのも不思議ではない。
 1800年戦役でクライがウルムに追い込まれながら、それから約40日に渡ってウルム周辺にとどまり抵抗を続けたのも、マックの判断に影響を及ぼしていた可能性がある。5月9日にビベラッハの戦いで敗れた彼は11日にはウルムへ撤収。しかしフランス軍はその後、ドナウ左岸に展開するクライの軍勢を追い払うことができず、ようやくクライがウルムを放棄したのはヘーヒシュテットの戦いで退路が断たれる危険性が増した6月19日になってからだった。
 Ian Castleは「ウルム自体が催眠術のようにマックを魅了していた。(中略)1800年戦役でフランス軍を効果的に阻止したその地を彼は揺るぎない防塁だと見なしていた」(Castle "Austerlitz" p41)と指摘している。ウルムはまた、シュヴァルツヴァルトを北方から回り込んでシュトゥットガルトに出てきた部隊への対応もしやすい場所でもある。ウルムにあるドナウ渡河点を確保することで、シュヴァルツヴァルトの北と南のどちらから敵が来ても効果的に対処できる見通しも立つだろう。
 10月初旬時点でコンスタンス湖近辺に前衛部隊を送り出していたマックだが、主力が集結していたのはウルム南方。10月3日時点でビベラッハ周辺にクレナウの予備部隊5000人がいたほか、イラー川とレッヒ川の間にリーシュの3万人、ミンデルハイム周辺にヴェルネックの6500人も展開しており、ウルム近辺に集めた兵力が最も多かったことが分かる。残念ながら実際にはウルム郊外のミヒェルスベルクとフラウエンベルクの陣地は「荒廃した状態にあった」(Castle "Austerlitz" p41)ようで、マックが期待したほど役に立ったかというと怪しい。

 ドナウ北方にあるアンスバッハとバイロイト領も、マックの布陣に大きな影響を与えたと考えられる。「プロイセンの持つアンスバッハ領が、フランス軍による北方からの攻撃にとってどれほど邪魔になるか」(The Ulm Campaign"http://www.archive.org/details/ulmcampaign180500mauduoft" p74)、地図を見れば一目瞭然だとFrederic Natusch Maudeは指摘している。アンスバッハとバイロイトのために、フランス軍の進軍ルートが極めて限られてしまうことは、これまでも指摘した通りだ。
 問題はマックの相手が司令官かつ国家元首であったこと。総裁政府に仕えるジュールダンや、執政政府の将軍であるオージュローには、軍事的判断だけでプロイセン領に侵入する権限はなかった。彼らは外交関係に配慮して自らの軍事行動に制限を加えることを、おそらく当然だと考えていただろう。だが、ナポレオンは違う。彼はいざとなれば自らの判断で外交関係を悪化させることになる「中立侵犯カード」を切る権力を保有していたし、実際にその権力を行使した。
 もう一つ、問題がある。たとえ中立を守ったとしてもバンベルクからニュルンベルクを経由する迂回ルートを取ればフランス軍は北方からドナウ河に接近することが可能なのだ。実際デュロックはそちらのルートを取るようナポレオンに働きかけていた(Castle "Austerlitz" p47)。加えてバンベルクにはオーストリアの指揮下に入ることを拒否したバイエルン軍が集結していた。たとえアンスバッハの中立が保証されるとしても、この方面に対してはやはり十分に備えなければならない。
 しかし、マックが十分に備えたようには思えないのだ。彼がドナウ北岸に展開させたのはキーンマイヤー軍団1万6000人のみ。それもフランス軍がドナウに接近しつつある10月5日の時点でネルドリンゲンからアイヒシュタットまで35マイルの範囲に散らばっていた。同日、ナポレオン麾下の大陸軍全体が展開していた地域の広さが65マイルであったことを考えるなら、キーンマイヤーの状況がどれほど危機的であったか分かるだろう(Castle "Austerlitz" p51)。マックの対応を見る限り、彼は北方については「十分」ではなく「必要最小限」の対応にとどめたように思える。

 おそらくマックは手元にある限られた兵力で「賭け」に出たのだろう。時間稼ぎのために欠かすことのできないウルムをまず主力で押さえ、シュヴァルツヴァルト南方から出てくるフランス軍に備えてその方面に前衛を送る。代わりにバイエルン軍がいる北方への備えは極力少なくする。彼のこのやり方は、過去の例を見る限り決して分の悪い賭けではない。過去にはほとんどのケースにおいてフランス軍はシュヴァルツヴァルト南方から進出してきた。要塞化されたウルムは長期間に渡って持ちこたえることができた。そして北方からドナウに接近してきたフランス軍は、決してドナウまでたどり着くことはなかった。過去においては。
 少ない兵力で防衛的役割を担っていたマックは、本当はもっと消極的な対応を考えるべきだったのだろう。そもそもウルムまで進出せずにロシア軍との合流を待った方が得策だった可能性はあるし、あるいは北方から大陸軍が迫っていると聞いた時点で早々にティロルへの退却を考えるべきだったとも言える。だがマックは敢えて賭けに出て、そして大敗北を喫した。自分が相手にしているのが歴史に残る稀代のギャンブラーであることに、彼は気づくべきだったのだろう。幸運の星の下に生まれたナポレオンを相手にするには、彼はあまりにも「不運」だった。

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