1805年のウルム戦役は、ナポレオンの勝利の中でも最も完璧に近いものだろう。ほとんど戦うことなくバイエルンに展開していたオーストリア軍の大半を壊滅させたのだから、期待以上の成果だったと考えてよさそうだ。
一方、完璧に近い敗北を喫したマックに対しては容赦ない批判が浴びせられることになった。彼は軍法会議で階級や勲章の剥奪に加えて2年間の禁固刑を言い渡された"http://www.napoleon-online.de/AU_Generale/html/mack.html"のみならず、同時代人や後世から散々に非難された。代表例として、ブーリエンヌが記録したナポレオン自身による指摘を紹介しよう。
「マックは私が人生において見た中で最も平凡な人物だ。彼は自らに満足し自惚れ、そして自分があらゆるものに匹敵すると信じていた。彼は何の才能も持たなかった。(中略)彼は自慢屋であり、それだけだった。彼はかつて存在した中で最も愚かな人物であり、それに加えて不運だった」
Memoires de M. de Bourrienne, Tome Troisieme"http://books.google.com/books?id=p5AFAAAAQAAJ" p275-276
ナポレオンにはマックを批判する権利がある。何と言っても彼は実際にマックを完膚なきまでに打ち負かしたのだから。しかし、後世の人間がマック批判をするのなら、少なくとも後知恵でない批判をしなければならない。つまり、実際に1805年秋に彼と同じ立場に置かれることを前提に状況を考える必要があるのだ。
ナポレオンがどのように侵攻してくるか分からない状況で、参考になるのは過去の歴史だ。フランス革命戦争が始まって以来、フランス軍がラインを越えてドナウ流域へと侵攻してきた例は3回ある。ジュールダンのサンブル=エ=ムーズ軍とモローのラン=エ=モーゼル軍が前進してきた1796年、ジュールダンのドナウ軍とベルナドットの監視軍が前進を試みた1799年、そしてモローのライン軍とオージュローの仏蘭連合軍が進軍した1800年。こうした過去の戦役でフランス軍はどのように移動したのだろうか。
1796年戦役におけるフランス軍の侵攻ルートはRamsay Weston Phippsの"The Armies of the First French Republic, Volume II"のMapIIに分かりやすく描かれている。まずラン=エ=モーゼル軍は「伝統的」とされるストラスブール発のルートを採用しているが、そのまままっすぐシュヴァルツヴァルトへ突入しているのは同軍右翼(フェリーノ麾下)の部隊のみだ。彼らはキンツィヒ川沿いに遡り、シュヴァルツヴァルトを越えてドナウ源流近くのフィリンゲンへ到達。さらにコンスタンス(ボーデン)湖北岸まで到達し、そこから北東へ方角を変えてレッヒ川沿いで主力と合流している。
一方、ラン=エ=モーゼル軍の中央(サン=シール)、左翼(ドゼー)、予備(モロー)はライン河とシュヴァルツヴァルトの間にある平地を北上。カールスルーエ近辺から東に向きを変え、シュトゥットガルトを経由してネレスハイム、ネルドリンゲンまで到達し、そこから南下してドナウ河を渡っている。フェリーノがシュヴァルツヴァルトを真っ直ぐ乗り越えたのに対し、彼らはその北側を大きく迂回している。
最後にサンブル=エ=ムーズ軍だ。デュッセルドルフでラインを渡った彼らは東西に広く展開しながらラーン川を渡りマイン河へ到達。そこからマイン河を遡るようにヴュルツブルクとシュヴァインフルトへ向かい、さらに東へ進んでバンベルク着。そこから南に転じレグニッツ川を遡ってニュルンベルクへ、そしてまた東に転じアンベルクまでたどり着いている。何度も方角を転じているのは、ちょうどニュルンベルク近辺に中立国であったプロイセンの領地があったためだ。
プロイセンは1791年にアンスバッハとバイロイトを買収している"http://en.wikipedia.org/wiki/Image:Ansbach-Bayreuth.png"。ニュルンベルクの西から南西に広がっているアンスバッハ領と、ニュルンベルク北東にあるバイロイト領に踏み込まないようにしながらドナウに接近するには、上に述べたようなルートを通るか、さもなくばヴュルツブルクからすぐ南下してアンスバッハ西方を回り込むしかない。フランス軍に許された進軍ルートは、かなり狭いものであった。
1799年戦役になるとフランス軍の侵攻はもっと限定的になる。まずドナウ軍は主力がストラスブールで、右翼がバーゼルでラインを渡った。右翼はそのままシュヴァルツヴァルトの南側を回り込むようにしてブルンベルクまで到着。主力は3縦隊に分かれ、一つはフライブルクからシュヴァルツヴァルトを越えてヒュッフィンゲンへ、一つはキンツィヒ川を経由してフィリンゲンへ、もう一つもシュヴァルツヴァルトを越えてロトヴァイルへ移動している。シュヴァルツヴァルトを越えて合流した彼らはそこからドナウ右岸へ渡り、コンスタンス湖との間をオストラッハまで東進した。
一方、監視軍はマンハイムからライン右岸へと踏み込んだが、ドナウまではたどり着いていない。彼らの活動範囲はネッカー河沿い近辺に限られており、ドナウ軍がオーストリアに撃退された後は牽制的な役割に終始している。敢えて言うなら彼らが取ったのはアンスバッハ西方ルートということになるだろう。
1800年戦役におけるライン軍の侵攻ルートを巡ってはボナパルトとモローの間に意見の不一致があったことがよく知られている。もっとも計画の細部こそ異なるが彼らの最終目標は同じで、ライン軍主力をシャフハウゼン付近に集めてそこから南ドイツへなだれ込むという仕組み。最終的にドナウ河とコンスタンス湖の間に部隊が展開するという点では1799年戦役と同じ侵攻ルートだと言える。
最右翼のルクルブはスイス領のシャフハウゼンから侵攻。モローの予備部隊はバーゼルでラインを渡り、シュヴァルツヴァルト南方を迂回するルートを取った。サン=シールはブリザッハでラインを渡ってシュヴァルツヴァルト南部を踏破。サント=シュザンヌは一度ストラスブールでラインを渡った後で左岸に引き返し、そこからブリザッハまで遡上してサン=シールがいた場所を占めている。
シャフハウゼン付近から平野部へ進出したフランス軍はいくつかの戦いでオーストリア軍を撃破し、彼らをウルムへ追いやるのに成功する。オーストリアのクライ将軍はそれから約40日間、ウルム付近に腰を据えてモローの軍勢を牽制し続けた。最終的にクライがウルムを放棄するのはウルム下流でフランス軍がドナウ北岸へ渡河し、ウィーンへの退路が断たれそうになってからだ。ナポレオンは退路を断った後でマックを降伏へと追い込んだが、モローは退路を完全に断ち切ることができず、クライはウルムからの脱出に成功する。
1800年戦役で北方からドナウに迫ったのは仏蘭連合軍。春季戦役ではほとんど活動しなかったが、冬季戦役ではマイン河下流域から東へ向かって前進。バンベルク近くのブルク=エベラッハで勝利し、そこからさらにニュルンベルクまで前進している。基本的に1796年にジュールダンが通ったのと同じルートを採用しているのは、やはりプロイセン領の存在のため。アンドレオシが記した"The Gallo-Batavian Army's 1800 Campaign on the Rhine"のp26にはフランス軍によるフュルト(ニュルンベルク近郊)占領にプロイセンが反対したことが記されている。
長くなったので以下次回。
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