ナポレオンと元帥たち・14

 ナポレオンの元帥評。今回はデルダフィールド本の最終章における主人公、マルモンだ。デルダフィールドはマルモンの最期を情緒感たっぷりに描きあげているが、ナポレオンはそれほどマルモンに対して同情的ではない。いやむしろ全く逆。グルーシーについて触れるのがいつもワーテルロー戦役に関連する場合だったのと同様、マルモンに言及する際にナポレオンはしばしば彼の「裏切り」を批判する。

「少年の頃から育ててきたと言ってもいいマルモンは、私を裏切った」
Sainte-Helene, Tome Second"http://www.archive.org/details/saintehelene02gourmiss" p83

「そして彼は私を裏切った! 彼は私より不幸になるだろう!」
Sainte-Helene, Tome Second"http://www.archive.org/details/saintehelene02gourmiss" p338

「私はマルモン[原文はM.....と伏字になっている]に裏切られた。我が息子とも、子孫とも、私自身の作品とでも呼ぶべき彼にだ。私は彼がその裏切りと私の破滅のための最後の一手を打とうとしたまさにその時に彼をパリに送ることによって、彼に私の運命を委ねた」
Memorial de Sainte-Helene, Tome Second"http://books.google.com/books?id=zW8uAAAAMAAJ" p434

「マルモンは後世にとって恐怖の対象になるであろう。フランスが存在する限り、マルモンの名が震えと伴に語られないことはない。彼もそれを感じており、そして現時点で彼はおそらく存在する最も惨めな人物だ。彼は自分自身を赦せないだろうし、その人生をユダのように終わらせるだろう」
Napoleon in Exile, Vol. II."http://books.google.com/books?id=VHcRAAAAYAAJ" p101

「神よ、私が好意と親切心を示してきたベルティエとマルモンが、私に対してどのような行動を採ったことか! 誰であれ再び私を騙そうとするものは許さない」
Talk of Napoleon at St. Helena"http://www.archive.org/details/talkofnapoleonat007678mbp" p248

 よほど腹に据えかねていたのだろう、挙句の果てにはマルモンの父親まで持ち出して彼を批判している。

「若い砲兵中尉だった頃、私はマルモンの父親の家に泊ったことがある。彼は素晴らしい人物だった。彼の息子が私を裏切った時に彼がまだ生きていれば、彼は悲嘆のあまり死んだだろう」
Talk of Napoleon at St. Helena"http://www.archive.org/details/talkofnapoleonat007678mbp" p250

 ただ、そのマルモンに対しても全面的非難だけでは終わらないのがナポレオンらしいところ。ベルナドットに対してすら冷静な分析ができた皇帝は、マルモンについても「良かったところ」探しをやっている。

「虚栄心がマルモンを破滅させた。将来の世代は彼の人生を色あせたものにするだろう。しかし、彼の心はその記憶よりは価値あるものだった」
Journal de la vie privee et des conversations de l'empereur Napoleon, Tome I. Premiere Partie"http://books.google.com/books?id=t30uAAAAMAAJ" p355-356

「これほど致命的な背信も、これほど決定的に認められたものもない。このことはモニトゥール紙に、彼自身の手で記録された。それは我々の破滅の直接の原因であり、我々の権力の死に場所であり、我々の栄光を曇らせるものである。にもかかわらず、彼の心情は彼の評判よりはいいものだと私は確信している。彼の心は彼の行為より勝っている。そのことは彼自身が意識しているようだ。新聞によると、ラヴァレットの恩赦を虚しく懇願した際に、彼は国王が強いる障害に対して、陛下、私はあなたに命以上のものを差し上げませんでしたか、と心から叫んだ」
Memorial de Sainte-Helene, Tome Septieme"http://books.google.com/books?id=BHQuAAAAMAAJ" p281

 裏切り行為自体は徹底的に非難しながら、その心情までが腐りきっていた訳ではないとフォローを入れている。もしかしたら、セント=ヘレナにおいてなお古い友情がナポレオンの中に残っていたのかもしれない。

 ついでにマルモンのために一つ弁護を(というかデルダフィールドの誤りを指摘)しておこう。1814年4月にネイとマクドナルドが連合軍との交渉に出向いた時、マルモンは同行する筈だったのに「一緒に行けないと言い出し」、そしてネイらがナポレオンの息子を即位させるよう連合軍と交渉している最中に「マルモンの部隊は侵略軍の戦列を抜け、ヴェルサイユに向けて行進していた」というのがデルダフィールドの描く裏切りの場面だ。だが、これは史実に反する。
 連合軍の司令部に所属していた英国のBurghershが残した"The Operations of Allied Armies in 1813 and 1814"によれば、4月3日の時点でマルモンがシュヴァルツェンベルクとの間でナポレオンの指揮から離れることを約束していた(p296-297)のは事実。しかし、その後でネイらが連合軍司令部に向かった時、デルダフィールドが書いている話とは異なりマルモンは彼らに同行した。マルモンは部下のスーアンに「自分が留守の間は部隊を動かさないように」と命じ、シュヴァルツェンベルクにも約束の実行が遅れると伝えている(p298)。
 連合軍との交渉において、ナポレオンの希望を強く主張するネイとコレンクールをマルモンは「支持した」(p299)。論争は決着がつかず、5日の午前6時でいったん打ち切られた。だがその直後になってマルモンの軍団(スーアン麾下)が連合軍に合流したとの連絡が届いた。「マルモン元帥もほとんど予想していなかった」(p300)この情報によって交渉は大きな影響を受け、息子を帝位につけるというナポレオンの望みは散った。
 マルモン自身が想定していなかった部隊の移動が行われたのは、マルモンとシュヴァルツェンベルクの合意を知っていたスーアンらが自らの判断でその合意の実行に踏み切ったためだ。彼らは4日の夜にフォンテーヌブローへ来るようナポレオンから命じられたのだが、自分たちが疑われているために呼び出されたのではないかと不安を抱き、急遽連合軍側に寝返ることを決断。マルモンに連絡することなく、5日朝には部隊をまとめてヴェルサイユへと行軍した(p301-302)。マルモン軍団の裏切りに仰天した人物の中には、ネイやマクドナルドだけではなくマルモン自身も含まれていたようだ。

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