Alexander Mikhailovsky-Danilevskyの"Russo-Turkish War of 1806-1812"読了。題名の通り、1806年から1812年までの間、ロシアとオスマン帝国の間で戦われた戦争について書かれた、世にも珍しい本である。というかよくぞ英訳本を出してくれたというところか。出版した(コピー本だが)Nafzigerと翻訳者のAlexander Mikaberidzeに感謝したい。
読んでみると、足掛け7年の戦争とはいえ実は結構休戦期間が長いことが分かる。1806年は年末にようやく軍事行動が始まっただけだし、1812年はほぼ年初から講和に向けた話し合いが行われていた。さらに、ティルジット和約が結ばれた1807年夏から1809年4月までは実は休戦状態。つまり、まともに戦闘が行われたのは1807年前半と1809年から1811年までの3年間ということになる。
この間、ロシア側の指揮官は結構派手に入れ替わった。1807年はミケルソン、1809年前半はプロツォロフスキー、同年後半はバグラチオン、1810年から11年の初頭まではカメンスキー、そして11年の途中からはクツーゾフが指揮をとった。このうちバグラチオンとクツーゾフを除く3人は指揮権を握っていた最中に死亡(病死)している。結構ハードな戦場だったのかもしれない。
彼らのうちクツーゾフは後に祖国戦争の英雄となり、歴史に名前を残した。バグラチオンもそれなりに有名な将軍であり、知る人ぞ知る人物となっている。だが、彼らと違って歴史からはほとんど無視されている人物もいる。もしかしたら他の将軍たちに代わって歴史に名を刻めたかもしれないのに、英雄になり損ねた将軍。カメンスキーがそうである。
ニコライ・ミハイロヴィッチ・カメンスキー"http://www.hermitagemuseum.org/tmplobs/O$E$MN25ZOEADUKI6.jpg"は1777年1月に生まれた。ナポレオンより7年半若い。元帥の息子として若いうちから軍人への道を歩んだ彼は、十代で中佐、二十歳で大佐となり、二十二歳の時には既に少将の地位にまで達していた。彼はスヴォーロフのイタリア及びスイス遠征にも加わり、早くから戦場での活動経験も積んでいる。
1805年にはブクスヘヴデンの部隊に所属し、アウステルリッツではバグラチオンの前衛部隊に配属されて戦った。ちなみに同じアウステルリッツでランジェロン麾下の旅団を指揮し、プラッツェン高地へ前進してきたフランス軍を見て自らのイニシアティヴで反転戦闘を行ったカメンスキーは彼の兄である。1807年のアイラウの戦いでは第14師団を指揮。ダンツィヒ、ハイルスベルクでも戦った。同年暮れには中将に昇進している。
しかし、彼が優秀な若手将軍から英雄候補にまで祭り上げられるきっかけとなったのは、1808年から始まった対スウェーデン戦争である。当初は師団長として参加した彼は、同年夏にラエフスキーの部隊を引き継いでから各地でスウェーデン軍相手に勝利を重ねた。詳細はよく分からないが、こちらのサイト"http://www.multi.fi/~goranfri/"にはロシア・スウェーデン戦争が紹介されているので参考にしてほしい。
勝利を重ねた彼が対オスマン帝国戦の指揮を取るためモルダヴィア軍に合流したのは1810年3月。この時、彼の部下にはランジェロン、ラエフスキー、さらには兄のセルゲイ・ミハイロヴィッチ・カメンスキーもいた。かつての上司たちを軒並みぶち抜いての大昇進である。年齢は三十三歳。フランス革命期には若い将軍が多いため余り目立たないが、前任のバグラチオン(四十四歳)や後任のクトゥーゾフ(六十二歳)に比べれば圧倒的に若い。
着任直後からカメンスキーはいきなり実績を上げる。まず、1万人の守備隊がいたバザルダイクを日中に強襲しあっさりと陥とす。それから間を置かずに前任のバグラチオンが攻撃に失敗したシリストラを降伏させた。ドナウ南岸のオスマン帝国側拠点を次々と落としていくカメンスキーを見て、人々は彼が翌年にも予想されていたナポレオンの侵攻に対するロシア軍指揮官になると考えたほどだそうだ(Mikhailovsky-Danilevsky曰く)。
しかし、それに続く戦闘はそこまでうまく行かなかった。オスマン帝国軍主力が立てこもるシュムラへの攻撃は膠着し、そこの封鎖を図ったものの相手の補給を許す有様。鉾先を変えてルセ強襲を試みたが、攻撃は尚早という部下の意見を無視して攻撃を行った挙げ句、2万人の兵力のうち8515人を失って撃退されるという大失敗を演じた。カメンスキーは兵士たちが臆病だったと批判したが、これは部下の士官たちからも評判が悪かったという。
カメンスキーは方針を変え、時間をかけてルセを攻撃することに決定。オスマン帝国軍は約4万の兵力を集めてルセ解放に向かったが、今度はカメンスキーも巧妙に立ち回り、かき集めた2万の軍勢で相手を包囲。大損害を与えてこれを撃退することに成功したという。汚名返上に成功したカメンスキーはさらにトゥルヌ、ニコポルなどを占領し、ドナウ沿岸からほぼオスマン帝国軍を追い払った。
とはいえ皇帝アレクサンドルが求めていたのはロシア軍をアドリアノープルまで前進させオスマン帝国を講和に追い込むこと。それには失敗したうえ、ナポレオンの侵攻に備えてモルダヴィア軍所属9個師団のうち5個師団までを本国内に呼び戻すことになったため、ロシア軍の攻勢は事実上この時点で終了してしまったことになる。
それでもカメンスキーに対する皇帝の評価は高かったようで、1811年にアレクサンドルはカメンスキーに対し、モルダヴィア軍の指揮権をクツーゾフに譲って彼自身は第2西軍(史実ではバグラチオンが指揮した部隊)の指揮官になるよう命令を送っていた。だが、この時点で病気になっていたカメンスキーはオデッサまでやって来たところで死亡。享年三十四歳だった。
もしカメンスキーが病死していなかったら、どうなっていただろう。史実とは異なり、カメンスキーが第2西軍を指揮。史実ではバグラチオンが積極策を主張して第1西軍を率いるバルクライ=ド=トリーと対立したのだが、より若くてアグレッシブなカメンスキーだったらもっと積極的に動いていた可能性がある。それがもしうまく行けば、彼は祖国戦争の英雄になっていただろう。
一方で第2西軍はナポレオンが進撃を始めた時点で主なターゲットとなっていた部隊だったことも事実。バグラチオンはうまいこと大陸軍の追撃を逃れたが、カメンスキーが前のめりに行動しすぎていれば却ってナポレオンの術中に陥っていた可能性もある。実際、対オスマン帝国戦でも時に大ポカをやらかしていたことを考えれば、軍事の天才ナポレオンを前にとんでもない失敗をしていたとしてもおかしくない。
もちろん、事実上全軍を率いていたのはバルクライ=ド=トリーであり、カメンスキーも結局は彼の命令に従わざるを得なかったのではと見ることもできる。そうなれば史実と流れはほとんど変わらないだろう。バルクライ=ド=トリーはまずスモレンスクまで、ついでモスクワへと後退し、ナポレオンはそれを追っていくことになる。
どの結果になったかは神のみぞ知るといったところだが、一つ確実に言えるのはカメンスキーの名が今より圧倒的に有名になったであろうこと。スウェーデンやオスマン帝国相手にどれほど活躍しようと、歴史に名が残ることはない。ナポレオンと対峙しなかったがために、カメンスキーも無名の将軍たちと同じ位置付けから脱することができなかったのだ。
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