阿蘭陀風説書4

 承前。

 1808年(文化5年)、この年は「阿蘭陀船入津無之」とオランダ船はやって来なかった。だが、同時に新しい情報が幕府に届けられてもいる。和蘭風説書集成には「參考史料」として以下のような文章が掲載されているのだ。
 「去夏之頃よりフロイス(ホーレン國ノ内)トイツ國スウーテ國(ロシヤノ屬國)一致仕フランス國に押寄來候に付、和蘭國之儀はフランス國之隣國にして年來通信仕候故フランス國に一致仕及合戰候處、ドイツ國及敗軍降參仕ドイツ國之内所々フランス國へ相渡し、フロイス國も及敗北國主逃去スヱーテ國并ロシヤ國屬國所々討取、フランス・ヲランダ得勝利ロシヤ王城にも押寄候哉之旨、ジヤカタラ表に於て風聞仕候趣カピタン物語仕候間此段書付を以奉申上候」
 この文章は伊能忠敬が写し取ったものと同じ。一応1805年及び06年戦役について触れているものだろうが、いろいろと問題が多い。まず、「フロイス(ホーレン國ノ内)トイツ國スウーテ國(ロシヤノ屬國)一致仕フランス國に押寄來候」というのが正確さに欠ける。そもそもプロイセン(フロイス)は「ホーレン(ポーランド)國ノ内」ではないし、プロイセンとドイツ(オーストリア)、スウェーデンがまとめて対仏大同盟を組んだのはもっと後の時期。当時は第三次対仏大同盟を英露墺が、第四次対仏大同盟を英露普瑞が組んでいた時期であり、要するにプロイセンとオーストリアが同時に対仏戦に踏み切ることはなかった。
 オランダがフランスと同盟していたこと、さらに05年戦役で「ドイツ國及敗軍降參仕ドイツ國之内所々フランス國へ相渡し」たこと、06年戦役で「フロイス國も及敗北國主逃去」までは事実。だが、続く「スヱーテ國并ロシヤ國屬國所々討取、フランス・ヲランダ得勝利ロシヤ王城にも押寄候」というのはまた無茶な展開である。フランス軍が「ロシヤ王城」のあるモスクワまでたどり着いたのはこの文章が書かれた4年も後の話。要するにここにあることはあくまで「ジヤカタラ表」の風聞に過ぎないということだろう。また、ここまで来てもいまだにナポレオンの名は登場してこない。
 だが、1809年(文化6年)に至り、ついにナポレオンの名が風説書に出てくる。大方の予想を裏切る形で、だが。この年の風説書ではまず前年オランダ船が来なかったことについて「去年阿蘭陀船來朝不仕候次第は、去々年申上候通エゲレス國フランス國戰爭之儀彌以相募り既[に]フロイス一國を阿蘭陀方に責取候程之儀に御座候而本國筋不穩殊に船々何れも軍船之ため出張仕」と記す。要するに欧州の戦争に船を取られて来日できなかったというのだが、その中でさりげなくプロイセンを攻め取ったのがオランダだと大嘘をついているのが面白い。
 そしてもう一つ。これまで欧州の戦争については触れても各国の国内情勢には触れようとしてこなかったオランダが、とうとう自国の内情を説明する。「フランス國王之弟ロウデウヱイキ・ナアポウリユムと申者阿蘭陀國へ養子仕國主に相立申候」というのがそれ。これが風説書にナポレオン(ナアポウリユム)の名が出てくる最初の例だが、実際に登場するのはナポレオンの弟でこの時期にオランダ国王だったルイである。
 ルイがオランダ国王になったのは1806年(もちろん養子になったわけではない、というかそもそもオランダがバタヴィア共和国になったことすら風説書では触れていない)。それが3年も遅れて伝えられた理由の一つとして考えられるのが、以前にも述べたフェートン号事件(1808年)だ。英国軍艦が長崎まで来たこの事件で幕府と英国に何らかの接触があったとすれば、そこで欧州におけるオランダの状況(フランスの属国となりナポレオンの弟が国王になっている)を幕府が知った可能性はある。もちろん何の証拠もない私の妄想に過ぎないのだが、風説書にこの話が出てきたのはそういう事情が背景にあったためではなかろうか。
 それにしても、もし風説書だけから情報を得ている人物がいたとすれば、この新国王ロウデウヱイキ・ナアポウリユムなる人物はブルボン家の末裔だと思うのではなかろうか。何しろ1797年の風説書で「臣下逆徒之者共追討仕、王孫之内國主に[相]立、舊臣之者守護仕、國中漸平和に相成候」としているのだから、今のフランス国王はブルボン王家のはず。こうした点も風説書のあてにならないところか。
 なお、この後ナポレオン戦争の終結に至るまで、ナポレオン一族のうち名が出てくるのはルイだけである。もちろん幕府の情報源はオランダだけではなかった(清、朝鮮、琉球とも交易あり)ため、ナポレオンの名が知られていた可能性は十分あるが、少なくとも同時代の日本人にとって彼はほとんど存在しないも同然の人物だったのであろう。

 続く。

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