ラ・ヴァンデ

 こちら"http://ci.nii.ac.jp/vol_issue/nels/AN00104138/ISS0000335976_jp.html"から読むことのできる文章の中に「フランス革命におけるヴァンデ戦争の史的位置」というものがある。その名の通り、フランス革命史の中でヴァンデ戦争がどのような位置を占めるかについて論じたものだ。より分かりやすく言うなら、ヴァンデ戦争が革命の推移に及ぼした影響はもっと重要視されるべきだという主張を述べた文章である。
 なかなか興味深いし、面白い指摘も多い。ヴァンデ戦争に詳しくない人にとってはごく大雑把な入門用文章になるだろうし、知っている人にとっても最近のヴァンデ戦争に関する論争を知ることができるのは大きなメリットだ。農民主体の自発的蜂起が王党派色、カトリック色を強めていった流れ。共和国政府による対ヴァンデ政策が、初期においては議会内の権力闘争のために使われたレトリックに過ぎないこと。そして何よりヴァンデを巡る対応がジロンド派没落に大きな影響を与えたという部分など、読んで参考になる。

 問題もある。ざっと目を通しただけでも3つほど気になる部分が見つかった。一つ目はそう大した問題ではないのだが、p86にある「マインツ部隊をはじめとする四つの部隊によって編成された約一一万六〇〇〇人による『西部共和国軍』の派遣(九月一日)」と、その脚注で書かれている「西部共和国軍部隊の内訳としてはマインツ部隊二万四千人、ラ・ロシェル沿岸部隊四万一千人、シェルブール沿岸部隊一万五五〇〇人、ブレスト沿岸部隊三万五三〇〇人であった」(p99)の部分だ。
 真っ先におかしいと感じたのは「西部共和国軍」の文字。最初はヴァンデに対処するために編成された西方軍(Armee de l'Ouest)のことかと思ったが、西方軍なら編成されたのは10月であり、9月1日というのはおかしい。第一、西方軍ならそこにシェルブール沿岸軍が含まれる訳がない。脚注を見る限り、ここにあがっているのは当時フランスの西部(つまり大西洋沿岸)全域に展開していた部隊全部。この全てが対ヴァンデ戦に投入されたのではない。
 筆者が引用しているAlain GerardのLa Vendee"http://books.google.com/books?id=KQLOVLZbdukC"を見れば、もっとはっきりとしたことが分かる。Gerardは対ヴァンデ戦に投入された共和国軍の数を確定するのは難しいと指摘したうえで、まず6月26日時点にソーミュール、ニオール、サーブル、ナントなどの戦力合計が約4万人だと推計している。ここで出てきた地名はいずれも対ヴァンデ戦の最前線にあり、これらの部隊はヴァンデのために投じられたものと考えても問題ないだろう。
 続いてGerardは9月1日時点の数字としてシェルブールからラ=ロシェルまで含めた大西洋岸全域の合計数字を出し、その後でさらに「最も低い推計でも、3分の1は常備兵で残りは志願兵から成る少なくとも3万人の戦力」(p214)と述べている。要するにGerardは対ヴァンデ戦に使われた共和国軍の推計値を三種類提示している訳だ。なのに筆者はそのうち最も大きな数値のみを取り上げ、しかもその大軍を山岳派政府が「派遣」したと記している。
 約11万6000人という推計値が存在すること自体は間違いではないが、その紹介の仕方はいささか公平性に欠ける。筆者は何が何でも「山岳派政府がヴァンデを鎮圧するために大軍を派遣した」と読者に思わせたがっているのではないか。私のようなへそ曲がりがこの文章を読むと、そう邪推したくなる。

 ヴァンデ破壊につながった山岳派のプロパガンダを説明する部分は、もっと拙い。筆者は「革命派側が自らの正当化のためのプロパガンダとして利用したと考え得るマシュクール事件の喧伝」(p89)を一例としてあげているが、よく読むとこの部分はほとんど説明になっていないのだ。
 何しろ最初に出てくるのがいきなり「共和派の歴史家の見方」であり、2年後に書かれた虐殺の記述であり、マティエ(1874-1932)のようなずっと後の時代の「歴史家の見解」である。筆者が示している同時代(つまり1793年)の記録は、議員ヴィレの報告のみ。その代わり後世の歴史家に対する批判はGerardからの引用(“革命のおべっか使い”など)を含めて充実しまくっている。筆者がここで説明しているのは、後の(山岳派に同情的な)歴史家による後世の人間に向けた「プロパガンダ」の実態だ。
 なのに出てきた結論は、「革命派がそのエピソードを誇大に喧伝するという行為は『反革命であるヴァンデを鎮圧する』という自らの政策を正当化する目的のもとで意図的になされたものであったということができるだろう」(p90)。そしてダメ押しのように「こうして反革命として位置づけられたヴァンデに対し、モンタニャール派政府は『ヴァンデ地方根絶』の旗印を掲げてその徹底鎮圧に乗り出していった」(p90)と記している。
 2年後に出た回想録や後の時代の歴史家の言説を、1793年当時の革命派が「自らの政策を正当化する目的」に使えるだろうか? ヴァンデを反革命として位置づけたのがマティエら後世の人物だとしたら、1793年の山岳派政府がそれを旗印にできたわけがない。そもそもマティエは1793年当時には生まれてすらいないのだ。後の時代の史料や歴史家の言説は1793年の政局に影響を与えることはない。そんな当たり前のことも分かっていないのか。1793年の歴史について説明したいのなら、同時代の史料を使え。そう言いたくなる。
 筆者がほぼ1ページ使って長々と説明しているマシュクールについての解説のうち、筆者の説を裏付ける論拠となるのはヴィレの報告3行分だけである。通説と異なる説を唱えるにしては、あまりに少ないと言わざるを得ない。マシュクール事件は1793年の時点でどのように伝えられていたのか、逆に共和派がヴァンデ人を虐殺したポルニック(筆者はポルミックと記しているがGerardの原文はPornic)の事件などはどの程度知られていたのか。そういった点を当時の文献から調べない限り、山岳派がマシュクールをプロパガンダに使ったという説をそのまま受け入れる訳にはいかない。

 もう一つ、違和感があるのがp91。そこには「ヴァンデ戦争勃発当時のジロンド派は(中略)強い姿勢で臨んだ対外戦争には負け続けるなどその無能ぶりを露呈し」たと書いている。ロランが内務相を務めていた時期をジロンド派内閣とするなら、彼らが政権の座にあったのは1792年3月24日―6月13日と、同年8月10日―1793年1月23日の期間だ。このうち前半の時期に関して言えば、4月に行われたベルギー侵攻が失敗するなど確かに対外戦争はあまり上手く進んでいなかった。だが、後半はどうだったか。

1792年
9月2日 連合軍がヴェルダン奪取
9月20日 ヴァルミーの砲撃戦でフランス軍が優勢
9月25日 フランス軍がサヴォイのシャンベリー占拠
9月29日 フランス軍がニース占拠
9月30日 ヴァルミーでフランス軍と対峙していた連合軍が退却開始
10月8日 リールを攻撃していた連合軍が退却
10月16日 フランス軍がヴェルダン奪回
10月21日 フランス軍がマインツ占拠
10月23日 フランス軍がフランクフルト占拠
11月6日 ジュマップの戦いでフランス軍が勝利
11月14日 フランス軍がブリュッセル占拠
11月27日 フランス軍がリエージュ占拠
11月29日 フランス軍がアントワープ占拠
12月2日 連合軍がフランクフルト奪回

 これを「負け続け」というのはどう考えても無理がある。その後も1793年2月にオランダのブレダを占拠するなど、ヴァンデ内戦が始まる3月中旬までフランス軍は対外戦争をむしろ押し気味に進めていた。状況が変わったのはヴァンデで戦いが始まったあたりからである。

3月10日 ヴァンデで暴動勃発
3月18日 ネールヴィンデンの戦いで連合軍が勝利
3月31日 マインツのフランス軍、包囲される
4月5日 フランス北方軍司令官デュムリエが裏切り連合軍側へ逃亡

 Gerardは、筆者の引用によると「経済上の危機や対外的な敗北は新しいものではなく、それをクーデタによる権力掌握の原因にするのは早計なように思われる。唯一新しい出来事、それはヴァンデ戦争である」(p78)と言っているようだが、ジロンド派没落時点から遡るなら「対外的な敗北」だって割と目新しい事象だ。革命史におけるヴァンデの重要性を強調しようとするのは構わないが、そのために国境で起きていた事実を軽視しすぎるのはいかがなものだろう。

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コメント

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ojy**922
はじめまして。ヴァンデ検索からきました。
興味深い記事がたくさんあって読み始めたら軽く1時間立ってしまいました。登録&TBさせてください。

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desaixjp
はじめまして。関心を持っていただければ幸いです。
これからもよろしくお願いします。
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