ナポレオンと元帥たち・8

 ナポレオンによる元帥評。セント=ヘレナにおけるナポレオンの発言のうちワーテルロー戦役に関するものはあまり信用できない、とベシエールについて話した時に述べた。他の場合は比較的冷静に話をしている陛下も、なぜかワーテルロー絡みになると自己弁護と嘆き節と「たられば」ばかりが目に付くようになり、しかも何度も同じことを繰り返し述べている。その影響をもろに受けたのがグルーシー。彼に対するナポレオンの発言は、結局ワーテルロー戦役に関する話ばかりになっている。

「私の右翼ではグルーシーの異常な機動が勝利を確実にする代わりに私の破滅を完成させ、フランスをどん底へ陥れた」
Memorial de Sainte-Helene, Tome Septieme"http://books.google.com/books?id=BHQuAAAAMAAJ" p277

「3万4000人の兵と108門の大砲を率いていたグルーシー元帥は、18日にモン=サン=ジャンかワーヴルのどちらかの戦場で戦わずに済むという、普通は見つけられないと想定される秘密を見つけ出した。元帥はこれほど奇妙なやり方で道に迷うことを自ら英国の将軍に誓約でもしたのだろうか? グルーシー元帥の行動は、彼の軍が行軍中に地震に飲み込まれることと同じくらい、予想不可能だった」
Memorial de Sainte-Helene, Tome Sixieme"http://books.google.com/books?id=CHQuAAAAMAAJ" p73-74

「もしグルーシーの愚かさがなければ、私はあの日勝利を得ていた筈だ」
Napoleon en exile, Tome I."http://books.google.com/books?id=vHUuAAAAMAAJ" p388

 敗北の原因としてほぼ全面的に責任を押し付けられているグルーシーだが、ここでもナポレオンは最後の一瞬だけ冷静さを取り戻し、マルモンやベルティエに投げかけた「裏切り」(trahir)という言葉の使用だけは避けている。

「違う、[グルーシーは意図的に私を裏切ったのではない。]しかし彼が行動力に欠けていたのは事実だ」
Napoleon en exile, Tome I."http://books.google.com/books?id=vHUuAAAAMAAJ" p388

 ナポレオンによる比較的冷静なグルーシー評が見られるのはグールゴーの日記の中だけである。

「私はグルーシーに与えた指揮権をスーシェに授けるべきだった。あの時は将軍としてのグルーシーが持っているよりも多くの活力と敏速さが必要だった。彼が素晴らしい騎兵突撃においてのみ優れていたのに対し、スーシェの方がより熱意を持ち私の戦争のやり方をよく知っていた」
Talk of Napoleon at St. Helena"http://www.archive.org/details/talkofnapoleonat007678mbp" p186

 グルーシーの優れた点は騎兵突撃にあり、将軍としての活力と敏速さには欠けている。それがナポレオンによるグルーシー評だ。ただ、この評価も結局ワーテルロー絡みの話の中で言及されているもの。グルーシーと「ワーテルロー」という言葉は、ナポレオンの中で分かちがたく結びついてしまっている。

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コメント

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RAPTORNIS
グルーシーはナポレオンがワーテルローで敗れるまで、愚直な行動が目立ちますが、以後の作戦行動を見ると決していわゆる“愚将”の一言で片づけるのはどうかと思います。司馬遼太郎の「坂の上の雲」では旅順における乃木希典軍の展開を、児玉源太郎をして「乃木はグルーシーになってしまうかもしれない」と言わしめているのですが、ちょっと状況が異なるようですね。私見ですが、グルーシーはナポレオンの命令に呪縛されており、ワーテルローの敗北でその呪縛が解けたのではないでしょうか。

ところでぼくは昨日までとあるデパートで開催されたアマゾン展でバイトしていました。展示されている熱帯魚の世話をしていたのです。バイトではあるものの、現場を任されており、雇用主からの指示と現場の状況が異なるという局面が多々ありました。6月17~18日のグルーシー、そして6月16日のネイやデルロンの立場が身に染みました。

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desaixjp
「乃木は司馬遼が描いたような愚将ではない」という説もよく聞きますね。より正確には「小説を基に史実上の人物に対する評価を下すのはいかがなものか」という内容の指摘ですが。映画ワーテルローを基にグルーシーが凡将だと決め付ける人がいたら、確かにそれは違うよと言いたくなります。
ワーテルローのグルーシーに関する私の最大の疑問は、ナポレオンが午後1時に「こちらへ来い」という命令を本当に出したのか、という点です。Coppensの指摘通りなら午後1時の命令文は存在しなかったことになるのですが、はてさて。

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SLEEP
司馬に対する批判で面白いのを見つけました。
http://www.ch-sakura.jp/oldbbs/thread.html?id=246903&genre=sougou
司馬の問題点は本人が史実だと言っちゃってるところでしょうね。どうも新聞記者の気分のまま書いてたんじゃないでしょうか。乃木愚将というのは陸軍の一部の見方にすぎず、日本のマスコミにありがちな取材源(人物)惚れをしちゃった気がします。

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desaixjp
ご紹介いただいた掲示板、半分ほど読んだところで力尽きました。論争するのは結構ですが、できればもっとソースを示してほしいところです。別宮氏の本が参考文献にあげられていた程度で、一次史料からの引用もなし。互いに自分の主張を述べるだけの文章を読み続ける気力はありませんでした。
小説家が小説という体裁で発表している以上、それは史実とは無関係の文章です。司馬遼が史実と言っているから史実だと思っている人がいるのなら、その人たちはナイーブ過ぎるのではないでしょうか。そもそも本当に史実だと思っているのなら、小説ではなく「歴史の本」として出すべきでしょう。それをしていない以上、あれはフィクション、つまり嘘八百です。嘘八百を読んで「○○史観」とありがたがる人の方がおかしいと思います。

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粟飯
こちらに書き込むのは初めてです。はじめまして!!

さて、わたし先日
「明治」という国家
という本を拾い読みしました。司馬遼太郎の随筆なのですが(元々は講演録だったのかもしれません)これでワーテルローの戦いについてもちょっと触れられていたのです。・・・・・・司馬によるとワーテルローはヨーロッパ分け目の戦いだったそうです(←ここがまず疑問です)で、この戦いに参加した兵員は両軍合わせて二十数万としていました。ナポレオンがベルギーに乗り込んだときは両軍合わせて三十数万だったはずですが(ベルギーの向こうで、プロイセンとイギリス以外の軍勢も支度を整えていたと思うのですが)司馬はワーテルローでぶつかった人数だけを数えたのでしょうか。

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desaixjp
初めまして。ワーテルローが「欧州分け目」の戦いでなかったことはご指摘の通りでしょう。でも、アレが世界史上でも重要な戦いだったと書いているのは司馬遼だけでなく欧州にもいます。というか英語文献ではよく見かけます。個人的にワーテルローは「英国人による宣伝が最もよく行き渡った陸戦」の一つだと思っています。英語が世界共通語になったからこそ、でしょうけど。
参加兵力についてですが、ご指摘の通り戦役全体の数字としては小さすぎますね。一方、会戦だけの数字と考えるなら、たとえばPeter Hofschröerの"1815 the Waterloo Campaign: The German Victory"がフランス軍7万3000人、英連合軍6万8000人、プロイセン軍4万7000人、計19万人弱という数字を挙げているように、司馬遼より少ない数字が一般的です。まあ、プロイセン軍のうち戦場に間に合わなかった部隊まで含めれば20万人を超えるようなので、その数字を紹介したのかもしれません。

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粟飯
お返事ありがとうございます。ナポレオンの生涯で最大というわけではないでしょうけれど、やはり大会戦ですね。

話がずれてしまいますが、わたしはお返事の中のGermanVictoryという部分に目をひかれました。この著者はきっとドイツの方でしょうね。

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desaixjp
Hofschröerは、本人の言によれば確か英国人です。英国生まれのドイツ系英国人、ではないでしょうか。名前が名前だけに「ドイツ人だからドイツ贔屓なんだろう」と言われることもあるようです。ドイツ贔屓なのは間違いないんですが、それでもワーテルロー戦役におけるプロイセン軍やドイツ人部隊の動向について彼の本ほど詳細に書かれた英語文献は他には記憶にありません。
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