歩け歩け

 ナポレオン漫画今月号続き。今回はマセナ師団の移動についてだ。漫画では「マッセナ師団は4日間で百キロ以上を踏破し三度の戦闘に勝利するという常識外れの記録を残している」とあるが、さてこれは史実なのだろうか。
 ボナパルト自身はそれに近いことを言っている。彼が1月18日付で総裁政府に宛てた報告書には「全半旅団は栄光に包まれたが、特にマセナが指揮する第32、第57、第18がそうだった。そしてマセナは敵を3日の間にサン=ミケーレ、リヴォリとロヴァベラで打ち破った。ローマの軍団は1日に24マイル移動したと言われる。我々の旅団は30マイル移動し、しかもその合間に敵と戦った」(Correspondance de Napoleon Ier, Tome Deuxieme"http://books.google.com/books?id=85jrswh0Sd0C" p258)と書かれている。
 ローマ軍団の移動距離について書かれている部分の原文は"vingt-quatre milles par jour"。で、milleをフランス語wikipediaで調べてみる"http://fr.wikipedia.org/wiki/Mille_%28unit%C3%A9%29"と1609メートルに相当するとの説明がある。ただし、さらに読んでいくとローマ兵が使っていたmille romainは1482メートルに相当するとの文章も。ボナパルトはここでローマ軍団の移動距離としてmilleを取り上げているのだから、それを元に計算するのがいいだろう。
 ボナパルトによればローマ軍団の移動距離は1482×24=35568、つまり35キロ強に相当する。なるほど、軍隊による一日の移動距離としてはかなりのものだ。それに対し、ボナパルトが主張したフランス軍の移動距離は1482×30=44460、実に44キロ強だ。で、ボナパルトの証言を信用して計算すると、一日30ローマ・マイルの4日分で距離は178キロ弱。漫画の「4日間で百キロ以上」を大きく上回る恐ろしい記録が打ち立てられる訳だ。つまり事実はフィクションより奇なり、というオチになる。だが果たしてそうだろうか。
 ボナパルトの報告のうち、まず一つおかしいのはマセナが「ロヴァベラ」で敵を打ち破ったという話。同じ報告書で彼は、リヴォリの戦い後に「私はヴィクトール将軍と勇敢な第57[半旅団]を回れ右させ、さらにマセナ将軍を後退させ、彼はその師団の一部と伴に[雪月]25日[1月14日]にロヴァベラに到着した」(Correspondance de Napoleon Ier, Tome Deuxieme, p256)と記している。マセナ師団が到着したのは正確には15日だと思うが、その際にロヴァベラで戦闘になったとは一言も記していない。
 ベルティエの報告でもリヴォリ戦後にオージュローへの増援として第57、第18、第32、第65半旅団を送り出した「彼[ボナパルト]は自らロヴァベラへ向かい、増援とともにそこに25日に到着した」(Campagne du General Buonaparte en Italie, Tome II."http://books.google.com/books?id=4ARXyag379AC" p79)と日付を間違って記している。そして、やはり同様にロヴァベラで戦闘があったなどとは記していない。
 マセナ師団第32半旅団に所属していたフランソワ・ヴィゴ=ルシヨンはリヴォリの戦いがあった14日夜に「ブオナパルテ将軍はマセナ将軍に師団を集め、マントヴァに向かうよう命じ」(ヴィゴ=ルシヨン『ナポレオン戦線従軍記』p61)たと記した直後に、16日の「ラ・ファヴォリット城の戦い」(p62)に言及。「第三十二半旅団はこの戦いで、オーストリア女王がみずから刺繍したというウィーン猟騎兵隊の見事な軍旗を奪取した」(p63)と記している。つまり、彼も15日に到着したロヴァベラでの戦闘などには一言も言及していないのである。
 ボナパルトの記した「サン=ミケーレ、リヴォリとロヴァベラ」の戦いという表現は、現実には適切ではないだろう。また、漫画にある「4日間で三度の戦闘」というのも実は正確ではない。まず、サン=ミケーレの戦いは1月12日(Correspondance de Napoleon Ier, Tome Deuxieme, p254)。そして13日夕刻にヴェローナを発したマセナ師団は14日にリヴォリに到着。そこで戦って夜には再び出発し、15日夕方にロヴァベラに到着。16日にラ=ファヴォリタにたどり着いてそこの戦闘に参加している。彼らが戦ったのは「5日間(12-16日)に三度」である。
 さらに、その期間中にマセナ師団が移動した距離も実は「百キロ」には到底及ばない。google map"http://maps.google.com/"を使って目分量で調べたところ、サン=ミケーレからリヴォリまでの距離はせいぜい24キロ。リヴォリからラ=ファヴォリタはその倍程度だ。道が蛇行している分を加えたとしても合計80キロくらいがいいところだろう。ヴェローナから移動を始めた13日を起点としても移動距離は4日で80キロ、その合間の戦闘は2回となる。もちろんそれでも凄まじい機動であることは間違いないが、史実は漫画に描かれているよりも少し地味だった。

 最後の方ではアルヴィンツィが「なぜ奴に勝てない!」と叫んでいた。受け入れがたい現実を目の前にして認知的不協和でも起こしているのだろう。で、史実でも認知的不協和に陥った人物はいたようで、その人物は後にリヴォリの戦いについてトンデモ説をぶち上げることになる。そのトンデモ説を巡り巡って紹介したのが、このblogをお読みの人には既にお馴染みのArchibald Alisonだ。

「[オーストリア軍に退路を断たれた時、]彼[ボナパルト]はすぐに時間を稼ぐため休戦を求める白旗をアルヴィンツィに送り、パリからの伝令が到着した結果としていくつかの提案があるとして、半時間の戦闘停止を申し出た。軍事は外交に服属すべきものとの考えを抱いていたオーストリアの将軍は、罠に嵌った。決定的な瞬間における戦闘停止が合意され、兵たちが『勝った、勝ったぞ』と大声で叫んでいたまさにその瞬間にオーストリア軍の進軍は止まった。(中略)ナポレオンは危機に対峙し、これら圧倒的な攻撃を撃退するのに必要な移動を行う時間を得た。ジュベールは軽歩兵とともにクォスダノヴィッチに対抗するため最右翼に向かい、ルクレールとラサールは軽騎兵、軽砲兵とともに脅かされているところへ飛んでいった」
History of Europe from the commencement of the French revolution, Vol. III."http://books.google.com/books?id=82QIAAAAQAAJ" p52-53

 ナポレオンはチートしたって訳だ。嘘の休戦を申し出て時間を稼ぎ、局面を有利にしようと試みる。確かにそうしたことを後にフランス軍は1805年のドナウ河渡河の際にやっている。だが、リヴォリでそういうことをしたというのは本当だろうか。
 おそらく史実ではない。Alisonがこの話をどこから引用しているのか、彼の本に記されている脚注にはないが、多分いつものようにハルデンベルクの本が元ネタだろう。ハルデンベルクのMemoires tires des papiers d'un homme d'Etat, Tome Quatrieme"http://books.google.com/books?id=PVW75raK7FMC"のp160-161には、Alisonの書いているのと基本的に同じことが書かれている。そしてハルデンベルクが元ネタであるとすれば、当然その源はあのRecit Historique de la Campagne de Buonaparte en Italieに遡ると予想できる。
 Select Reviews. For August, 1809"http://books.google.com/books?id=i2IAAAAAYAAJ"のp112にはRecit Historiqueのp190以下に「ブオナパルテは降伏条件を定めるための一時間の戦闘停止を懇願する休戦の旗を送った。その求めは承諾された。そして時間切れの15分前にブオナパルテはオーストリア軍を奇襲し、彼の軍を助け出すのみならず完全な勝利を得た」と書かれていることが紹介されている。Recit Historiqueを書いたオーストリア軍司令部所属のフランス亡命貴族は、ナポレオンは汚い手を使ったから勝てたのだと大声で訴えていたのである。
 でもこれはおそらく嘘だ。同じくオーストリア軍司令部に所属していたグレアムがRecit Historiqueより前に書いた戦役に関する本には、そうした話は一切紹介されていない。グレアムが書いた報告書でも、リヴォリ高地に攻め上った部隊の先頭が少数の騎兵に攻撃され「彼らは反転してフランス騎兵だと叫んだ。突然のパニックが燎原の炎のように広がった」(Martin Boycott-Brown "The Road to Rivoli" p514)と記されており、休戦などがないままいきなり戦局が暗転したことが分かる。
 リヴォリの敗北がオーストリア軍にとってかなりショッキングだったのは事実だろう。ほとんど勝ったと思っていた者がいても不思議ではない状況から事態は急転直下。逆に大損害を出してほうほうの体で逃げ出す羽目に陥った。目の前で起きたことだとはいえ、信じられなかった者がいても不思議ではない。
 認知的不協和を覚えたのはグレアムもRecit Historiqueを書いた亡命貴族も同じだった。ただグレアムは嘘まではつかず、ボナパルトがスパイを活用したのではとの推測によってこの不協和を乗り越えようとした。一方、亡命貴族はボナパルトが休戦を訴えてきたとの嘘をでっち上げることでボナパルトの「あり得ない勝利」を説明し、自分と他人を納得させようとした、のだろう。こういう話を平気で書いてしまうこの亡命貴族は、基本的にあまり信用できないと考えた方がよさそうだ。

 以上、ようやく今月号分が終わりである。あー長かった。

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