ナポレオン漫画続き。ヴィクトールの場面に続いて出てくるのは右翼から回り込んできた敵に対する対処する場面だ。アディジェ河沿いの道からインカナルの隘路を登ってリヴォリ高地(戦報に言う『円形劇場』)へオーストリア軍がなだれ込んできた局面は、おそらくリヴォリの戦いのクライマックスだ。フランス軍の予備が集まるリヴォリを彼らが確保すれば、フランス軍はバラバラに分断される。逆に彼らを追い払えば、フランス軍にとって厄介な相手は背後に回りこんだルジナンだけになる。
この時が決定的であったことは戦闘参加者も認めている。漫画では派手に吹っ飛んでいたが史実ではきちんと生き残って戦役の歴史を記したトーマス・グレアムは、リヴォリについて「その地の確保はその日の運命を決めた」(Thomas Graham "A Contemporary Account of the 1796 Campaign in Germany and Italy, Volume 1" p121)と指摘している。漫画の中では他の戦闘に埋もれて今一つ目立たないが、本当は重要な場面だったんだってば。
さてこの時、インカナルを上ってきたのはオーストリア軍のどの部隊だったのか。Streffleurs militarische Zeitschrift"http://books.google.com/books?id=3BnsJKsHDX8C"のp120以降にリヴォリ戦役当時のオーストリア軍戦闘序列が載っている。というかこんな文献までアップされているとは恐るべしgoogle book。この雑誌(別名Osterreichische Militarische Zeitschrift、略してOMZ)は1808年にカール大公によって創設された軍事科学雑誌であり、何と今でも出版が続いている"http://de.wikipedia.org/wiki/%C3%96sterreichische_Milit%C3%A4rische_Zeitschrift"。そういう雑誌に載っているデータなら信頼度は高いだろう。
で、同書のp130-131にあるDie V. Kolonne(第5縦隊)こそがインカナルを突破した部隊である。指揮官はロイス公で、歩兵大隊9個、騎兵大隊5個半で構成されており、総兵力が7871人だったことが分かる。戦報に載っている地図ではこの第5縦隊をクォスダノヴィッチが、アディジェ河対岸を南下した第6縦隊をヴカソヴィッチが指揮し、両者はいずれもロイス公麾下にあったと記されているが、OMZのp131には、当初の移動時点でクォスダノヴィッチが第4縦隊(オクスカイ)と第5縦隊を指揮していたと書かれており、彼がロイス公の下にいたとは書かれていない。Martin Boycott-Brownも"The Road to Rivoli"のp494で同じことを述べている。
ちなみに(また話がずれるが)OMZのp121にはプロヴェラ部隊の戦闘序列も載っており、そこの一番上にはWiener Freiwillingenの名が。ボナパルトが報告書や回想録の中で記していたウィーンからの義勇兵部隊が実在したことがこれで確認できた訳だ。いやあよかったよかった。閑話休題。
ロイス公の軍勢はシュタプス竜騎兵連隊の大隊を先頭に、その後にカレンベルク歩兵連隊が続いて高地にやって来た、とBoycott-Brownは書いている(p512)。上記の戦闘序列を見ると、まずシュタプス連隊の2個大隊は第4縦隊所属となっている(OMZ, p130)。実は1月12日にアルヴィンツィがクォスダノヴィッチに対し、第4縦隊を山間部に移動させ、その騎兵は第5縦隊と伴にアディジェ渓谷を進めという命令を出していた(Boycott-Brown "The Road to Rivoli" p499)。そのためシュタプス連隊がロイス公の縦隊と一緒に行動していたのである。続いて前進してきたというカレンベルク歩兵連隊は、戦闘序列にきちんと名前が記されているので問題はない。
騎兵が先頭にやって来たということは、この方面の先頭を任されていたフランス軍のジュベール将軍も認めている。彼が18日に書いた報告書では「しかしとうとう新たな混乱が、ちょうど撤収したばかりの塹壕が掘られた高地にあるリヴォリへの道へ我々を押し返した。既に敵は騎兵を送り出していた。既にインカナルから来た3000人の縦隊が塹壕を奪い大砲を5門運んできた」(Memoires de Massena, Tome Deuxieme"http://books.google.com/books?id=kpcvAAAAMAAJ" p523)と、危機的な状況を描写している。
フランス側で他にそこまで詳しく書いている記録は見つけられなかったが、一人ジュベールと少し違う話をしている人物はいた。ベルティエはその報告書で「実際、敵は峡谷対岸にあるリヴォリ高地を見下ろす小さな岩場から広がりながら降りてきた。そして我々の陣地の要である[リヴォリ]高地には既に500人の兵がいた」(Campagne du General Buonaparte en Italie, Tome II."http://books.google.com/books?id=4ARXyag379AC" p74)と記している。ジュベールの3000人と比べれば随分と数が少ない。ジュベールもベルティエも問題となっているリヴォリ高地周辺にいたことは確かなのだが、現場に居合わせた人間同士でも証言が一致するとは限らないという一例だ。
ロイス公の前進によってフランス軍の右翼(ジュベール)と中央(ベルティエが指揮していた)は孤立の危機に陥った。それを救ったのが、漫画ではルクレールが行っている騎兵突撃。フランス騎兵の突撃によってロイス公の縦隊はリヴォリ高地から叩き落され、フランス軍の戦線は安定。背後に回りこんだルジナン縦隊は、敵を包囲するどころか自ら孤立する羽目に陥った。戦局を劇的に変化させた騎兵突撃だったことが窺える。
では誰がこの突撃を命じたのだろう。ボナパルトは自分だと言っている。1月18日付報告書で、彼は「私はルクレール将軍に、リヴォリ高地を確保するべく行って敵に突撃せよと命じ、そして中央を攻撃している敵歩兵の側面を衝き、彼らに勢いよく突撃するべく50騎の竜騎兵と伴にラサール少佐(chef d'escadron)を送った」(Correspondance de Napoleon Ier, Tome Deuxieme"http://books.google.com/books?id=K1cuAAAAMAAJ" p255)と言及。自分の命令で突撃が行われたと主張している。
ただし、この件については異なる話をしている人物も実在する。ベルティエは「あらゆるところを見ていた司令官は、騎兵部隊が使いやすいだろうと判断し、我々にラサール少佐と騎兵分遣隊を送ってきた。(中略)私は峡谷の反対側にあってこの高地を見下ろしている平地へ騎兵の小集団を差し向けた。騎兵突撃は最も輝かしい成功を収めた」(Campagne du General Buonaparte en Italie, Tome II. p74-75)と記している。ここではボナパルトの役割は騎兵をベルティエの下に送り込んだだけであり、突撃を命じたのはむしろベルティエのようになっている。
そしてもう一人、司令官とも参謀長とも微妙に異なる話をしているのがジュベールだ。彼は「状況は絶望的だった。私はベルティエ将軍に2個騎兵大隊を求め、彼に向かって、街道を見下ろしコロナから来た歩兵が展開している高地で突撃を行い、その間に私がインカナルから到着した縦隊が敵と合流するのを防ぐために第14及び他の手元にある半旅団で突撃を行うことだけが、我々を救う道だと言った」(Memoires de Massena, Tome Deuxieme, p523)と報告書で述べている。つまり、ここでは突撃を求めたのがジュベールであり、それを受けて命じたのが(おそらく)ベルティエとなっているのだ。
もう一つ分からないのは、どの部隊が突撃したのかという点。まずそもそもリヴォリの戦場にいた騎兵部隊を確認しなければならないのだが、そこで参考になるのがナポレオンのMemoires pour servir a l'histoire de France sous Napoleon, Tome Quatrieme"http://books.google.com/books?id=pyinc0AZ2bgC"のp358-360。上のOMZにはオーストリア軍の戦闘序列が載っていたが、こちらにあるのはフランス軍の戦闘序列である。
序列が紹介されている5個師団のうちレイ師団は戦闘にほとんど参加できなかったそうなので無視していいだろう。レニャーゴにいたオージュロー師団、マントヴァ封鎖していたセリュリエ師団も同様。残るマセナ師団とジュベール師団に所属している騎兵部隊は第1騎兵連隊、第15竜騎兵連隊、第22猟騎兵連隊の3連隊のみ。このうち記録に具体名が出てくるのは第22猟騎兵だ。ジュベールの報告書で「すぐ第22猟騎兵[連隊]と多くの騎兵分遣隊が高地を一掃した」(Memoires de Massena, Tome Deuxieme, p523-524)との文章がある。
ベルティエの報告にはそもそも騎兵連隊名は全く登場しない。ボナパルトの報告書では「竜騎兵」という言葉があるので、もしかしたら第15竜騎兵連隊も参加していたのかもしれないが、確証はない。残る第1騎兵連隊については、ボナパルトらの報告書には出てこないが連隊史"http://www.simmonsgames.com/research/authors/SpectateurMilitaire/HistoireRegimentaireItalie/1CavalryFrench.html"には「敵は高地の上にある砲兵隊のうち2門を奪い、彼らの歩兵を前進させてきた。ルクレール将軍は第1騎兵連隊と再合流し、アディジェの渓谷まで駆けつけて大砲を奪回した」とある。
要するにどの部隊もこの突撃に参加した可能性があるってこと。ただ突撃自体はかなり規模の小さなものだったようだ。Boycott-Brownは200騎ほどの突撃だったのではないかの説を引用している(Boycott-Brown "The Road to Rivoli" p513)。何にしても今回の漫画ではルクレールが格好良く突撃していたのがヨシ。大陸軍の中でも典型的破滅型人間の最右翼であるラサールの登場は、いずれまたの機会に。
も一つ。「リヴォリ戦においてブリュヌは8発の弾丸を受けた」というヤツだが、ボナパルトの報告書ではリヴォリの2日前に行われたサン=ミケーレの戦いについて「ブリュヌ准将はその服に7発の銃弾で穴をあけた」(Correspondance de Napoleon Ier, Tome Deuxieme, p254)と記している。要するに史実とは異なる訳だ。穴をあけられた戦いをサン=ミケーレでなくリヴォリにしたのは、そちらの方が分かりやすいからだろう。7発が8発になった理由は不明。
で、まだ続くんだなこれが。
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