ヴィクトールとレイ

 ナポレオン漫画続き。さて第18半旅団がフランス軍の背後に回りこんだルジナン縦隊と戦っている場面の後に、さらにそのオーストリア軍の背後を増援にやって来たフランス軍が衝く場面があった。そこで活躍していたのがヴィクトールなのだが、これは史実だろうか。
 結論から言うならおそらく史実ではない。ナポレオンの書簡集を見ながらその点を確認してみよう。まず1月12日の時点でボナパルトはベルティエに対し、「ヴィクトール将軍に、明日第57[半旅団]の第1大隊と伴にカステラロへ出発するよう命令を出せ」(Correspondance de Napoleon Ier, Tome Deuxieme"http://books.google.com/books?id=K1cuAAAAMAAJ" p234)と伝えていたが、オーストリア軍の動向をつかんだ13日午後3時には「ヴィクトール将軍はこの命令を受け取った1時間後、彼の麾下にある第57半旅団の兵と伴にカステラロを出立し、ヴィラフランカへ向かえ」(p238)とリヴォリへ接近するよう命令を変更している。 
 同日同時刻付のセリュリエへの命令でも「セリュリエ将軍は第57半旅団の他の2個大隊に対し、彼らを既にカステラロへ送っていないのなら、ヴィラフランカで[ヴィクトールに]合流するよう命令を出せ。明日午前9時に同半旅団全てがヴィラフランカにいるようにせよ」(p239)としている。第57は言われた通りに動いたようで、同連隊史"http://www.simmonsgames.com/research/authors/SpectateurMilitaire/HistoireRegimentaireItalie/57LineFrench.html"には「1797年1月13日、第57はカステラルへ前進した。真夜中にこの町へ戻った部隊は、強行軍の命令を受けて移動を続け、14日朝9時にヴィラ=フランカに到着した」とある。
 14日はリヴォリ会戦当日。この日のヴィクトールへ対する命令は書簡集には残されていないが、おそらくヴィラフランカに到着した彼と第57半旅団にはリヴォリへ向かうよう命令が出されたのだろう。第57の連隊史にはヴィラフランカ到着後に「少し休止した後で再び移動した。急いだものの部隊は真夜中過ぎにようやくたどり着くことができただけだった。もはや遅すぎ、戦いは終わって敵は逃げていた」とある。第57がリヴォリの戦場に間に合わなかったことは前回も指摘した通りであり、同半旅団を指揮していたヴィクトールもまた戦場にはたどり着けなかったと見ていい。
 ボナパルト自身もヴィクトールの到着が遅かったと言及している。15日付のジュベールへの命令書の中には「マセナ将軍の師団に属する3つの半旅団と、夜になってやっとリヴォリに到着したヴィクトール将軍麾下の第57は本日、夜明けと伴にリヴォリを出立するよう命令を受けた」(p242)との記述があり、ヴィクトールがやって来たのが夜だったことが分かる。漫画で「勝つぞー」といって突進しているシーンは、史実ではなくフィクションだと考えていいだろう。

 ではヴィクトール以外の部隊が増援としてやって来た可能性はないのか。戦報を読むと最後の方でルジナン縦隊が「完全に孤立。レイの旅団も現れて挟まれると、壊滅的打撃を受け多くが捕虜となった」とある。レイについては前にこちら"http://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/40590007.html"で少し記したが、史実ではヴィクトールではなく彼の部隊が到着した、と考えていいのだろうか。
 ボナパルトは到着したと書いている。書簡集を見ると1月18日付の総裁政府への報告書には「レイ将軍が我々を迂回した縦隊の背後に布陣している間に、第18半旅団が到着した」(p256)と記されており、「味方の後ろをとった敵の後ろ」に彼がやって来たことは認めている。ただし、ボナパルトの報告書でレイ将軍が言及されているのはこの一ヶ所のみ。たどり着き、布陣した後で何をしたのかについては全く触れられていない。
 もう少し詳細に書いているのはベルティエだが、それを読むとボナパルトの報告書があまりにそっけなかった理由が分かる。「長い距離を移動したため、レイ将軍の到着は遅くなり、我々を迂回した敵部隊に足止めされ、彼らがそちら側に配置した哨戒線と交戦した。しかし、戦闘に決定的に参加するにはそこは遠すぎた」(Campagne du General Buonaparte en Italie, Tome II."http://books.google.com/books?id=4ARXyag379AC" p77-78)。レイ将軍は「敵の後ろ」に確かに布陣した。だが戦闘に与えた影響はほとんどなかった。司令部はそう認識していたようだ。
 レイ師団がほとんど活躍できなかったことに対し、回想録作者たちは一様に批判的である。たとえばマルモンは「司令官はカステルノヴォの予備師団を指揮するレイ将軍に、こちらへ来て合流するよう命じた。戦場にたどり着いたこの将軍は、敵が彼と主力軍の間にいるのを見たが、それと戦うことを思いつかなかった。彼は敵の前に布陣し、理解に苦しむ愚行だが、そこで[味方との]連絡線が再開する時を待った」(Memoires du duc de Raguse, Tome Premier"http://books.google.com/books?id=vrMFAAAAQAAJ" p253-254)と記している。一応「彼の存在が敵を威圧し、敵が高地から下りてほぼ全軍が交戦状態にあった主力軍を攻撃するのを妨げた」(p254)という牽制効果は認めているものの、「成功を決定づけたのは我々[主力軍]の戦線だった」(p254)というのがマルモンの結論だ。
 ボナパルトの副官だった弟のルイは、落伍兵などを集めてリヴォリの戦場へ向かう途上にあった。彼はそこでレイ師団とバラギュアイ=ディリエール師団を発見し、「彼らのところへ行ってまず攻撃をするよう求めた」(Documents historiques et reflexions sur le gouvernement de la Hollande, Tome I."http://books.google.co.jp/books?id=45tJAAAAMAAJ" p69)。だが「彼[ルイ]は何も得られず、増援を求めても一個大隊すらもらえなかった」(p70)。結局、ルイは自分がかき集めた少数の部隊だけでルジナン縦隊を攻撃し、「周囲全体に敵がいることを知った敵は包囲されたと信じ込み、隊列が緩み、全ての高地を占拠していたその戦線は散り散りになって一瞬のうちに姿を消した」(p70-71)。
 彼らの批判は、おそらく司令部の抱いていた感情と同じものである。司令部はこの不作為に対し、レイ将軍をいわば「左遷」することで対応した、というのがティエボーの主張。「第32[半旅団]の1個大隊は、待ち構えている予備師団名の3000人を指揮するレイ将軍に渡すまで、捕虜を護衛する役目を担った。この将軍は進路が敵に塞がれているのを見て、陣地の保持に専念し全力で敵を攻撃しようとしなかった。この失敗は将軍にフランスへ捕虜を送る任務を与えるのに十分なものだった」(Memoires du general Bon Thiebault, II."http://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k201548m" p60)とティエボーは書いている。
 事実、1月19日にベルティエは「司令官の命令に従い、レイ将軍に2万人の戦争捕虜をグルノーブルへ連れて行く役目を与えた」(Campagne du General Buonaparte en Italie, Tome II. p62-63)と報告している。ボナパルトの書簡集にも21日付の陸軍大臣と内務大臣への手紙において「直近の戦闘で得た約2万人の捕虜が、レイ将軍が指揮する歩兵2000人と騎兵1個大隊に護衛され、ミラノを出てグルノーブルへ向かう」(p263-264)ことが知らされている。マルモンも「レイ将軍は、彼が行った軍事行動の代償として、その師団と伴に直近8日間に得た2万人の捕虜をフランスへ護衛する役目を担った」(Memoires du duc de Raguse, Tome Premier, p256)と書いている。

 同じようにリヴォリの戦場で活躍できなかったヴィクトールとレイ。だが、両者のその後は対照的だった。レイが左遷されたのに対し、ヴィクトールは実は戦役後に准将から将軍へ昇進している(Correspondance de Napoleon Ier, Tome Deuxieme, p259)。後者は2日後のラ=ファヴォリタの戦いにおける活躍が評価されたためだと思うが、加えて両者のリヴォリの戦場までの距離も関係したのではないかと思われる。
 ヴィクトールの部隊が14日午前9時にたどり着いたヴィラフランカからリヴォリまでは直線距離で約20キロ。一方、13日午後5時にボナパルトがレイに出した命令では、彼の部隊は14日午前2時の時点でカステルノヴォに到着することになっていた(p239-240)。カステルノヴォからリヴォリは直線距離で約13キロ。ヴィラフランカのヴィクトールより距離は短く、時間は早い。
 加えて14日(時間不明)にボナパルトがレイに出した命令(p242)では、彼の師団はピオヴェッツァーノに向かうことになっていた。ピオヴェッツァーノとリヴォリの距離はさらに短く、直線で7キロ程度しかない。実際に距離が短かったからこそ、戦闘に間に合うタイミングで到着しながら積極性に欠けていたと主張する人物が大勢いるのだろう。物理的に遠すぎたヴィクトールは戦闘に参加できなくても仕方ない。だが距離が近かったにも関わらず消極的だったレイは「イタリア方面軍に非ず」との烙印を押されてしまった。
 ただし、完全に失脚した訳でもない。Georges Sixの"Dictionnaire Biographique..., Tome II."(p360-361)によれば彼は後にイタリア方面軍に戻ってきたし、1798年にはローマ方面軍(後ナポリ方面軍)の騎兵指揮官となっている。1800年戦役ではマクドナルドのグリゾン方面軍に所属してシュプルーゲン峠越えに参加。1801年以降はほとんど引退状態にあったようだが、王政復古後は様々な軍務に就き、1817年には男爵にも叙された。全体としてみれば、そんなに悪い人生ではなかったのだろう。

 以下次回。

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