1809年春

 前回の続きでS. J. Watsonの本から。1809年戦役の初動に関して彼は一般的な研究者とは異なる指摘をしている。
 4月のバイエルンにおける戦役の初動で問題とされるのは、ダヴーの第3軍団が他の部隊から遠く離れたレーゲンスブルク(フランス名ラティスボン)に布陣したこと。第3軍団が孤立してしまうような布陣になったのは、パリにとどまっていた皇帝からの命令を受けとって作戦を指揮していたベルティエが、硬直的な対応を取ったためだと言われている。
 当初、ナポレオンはベルティエに対し2つの作戦案を提示していた。一つは4月10日以前にオーストリア軍が攻撃を仕掛けた場合の対応策で、この際にはフランス軍はレッヒ河背後、アウグスブルクとドナウヴェルトに展開することになっていた(Correspondance de Napoleon 1er"http://www.histoire-empire.org/correspondance_de_napoleon/sommaire2.htm" 28 mars 1809)。
 一方、4月15日になってもオーストリア軍が動かなかった場合、皇帝は「ラティスボンに司令部を置き、そこに全軍を集める」方針を示している(Correspondance de Napoleon 1er 30 mars 1809)。
 実際にカール大公率いるオーストリア軍が国境を越えたのは4月9日。当然、第一の策を採用してフランス軍はダヴーも含めてレッヒ河の背後まで下がるべきだったが、なぜかベルティエはダヴーをラティスボンに向かわせ、他の部隊からはるか遠くへ追いやった。その理由としてしばしば指摘されているのが、4月10日にナポレオンが出した命令に伝達ミスが生じたというものだ。
 ストラスブールにいるベルティエ宛てに出されたこの命令は、腕木通信を通じて13日になってようやく目的地に着いたとされている(Correspondance de Napoleon 1er 10 avril 1809)。兵をアウグスブルクとドナウヴェルトへ集めろと命じたこの命令は、ベルティエがストラスブールから移動したためもあって16日まで彼の下に到着しなかった。
 一方、それより2日半早く到着したと言われている命令(同じ4月10日付け)には「アウエルシュテット公(ダヴー)はラティスボンに司令部を置き、その軍は町から1日以内に配置せよ」と書かれていた(Correspondance de Napoleon 1er 10 avril 1809)。これはあくまでオーストリア軍の攻撃が4月15日以降であった場合の策を記したものだが、ベルティエはそれを勘違いし文字通りにダヴーを布陣させてしまった、というのが通説だ。
 本来なら腕木通信を使って早く到達するはずだった命令が遅れ、それより遅れても構わない命令が先に手元に到着してしまった。おまけにベルティエは融通の利かない男だったため、状況を勘案することなくその命令を文字通りに実行しようとした。「ダヴーは公式に命令の再考を要請したが、皇帝に対する義務感からベルティエは命令を実行するよう主張する他に選択肢がなかった」(Watson "By Command of the Emperor" p165)というわけだ。

 こうした通説に対しWatsonは、まずナポレオンが10日に腕木通信を使わずに出し、ベルティエの下に先に到達した命令を読み直すところから始める。上では記していなかったが、命令の1センテンスすべてを記すと、以下のようになる。

「アウエルシュテット公は『たとえ何が起きようとも』(Watsonの英訳)『どんな情勢にあっても』(James R. Arnoldの英訳)ラティスボンに司令部を置き、その軍は町から一日以内に配置せよ」
Correspondance de Napoleon 1er 10 avril 1809

 Watsonによればベルティエはこの『たとえ何が起きようとも』という文章を文字通りに解釈してダヴーの軍勢をラティスボンに置いたのだという。彼は皇帝が自分の知らない情報を得たうえでこのような命令を送ってきたものと考え、この布陣が軍事的には危ういことに気づいていながらなおナポレオンの言う通りにしようとしたのだと。
 しかし実際にはナポレオンはオーストリア軍の動きを知らないまま、当初の方針を変更していた。彼は最初に提示していた二つの策を混合し、レッヒ河の背後とラティスボンの両方に部隊を置くことを決心。「オーストリア軍が手の内をさらしたところで、前方もしくは後方どちらでも集結を容易にできるよう意図していた」(Watson "By Command of the Emperor" p165)というのがWatsonの指摘だ。
 ダヴーの第3軍団を突出させるのがナポレオンの狙いであったことは、4月11日にナポレオンが出した命令からも分かるという。

「手元にある情報を見ると、敵が15日から20日の間に戦闘行為を始めようとしていることは確信できる。リヴォリ公[マセナ]は15日にはランズベルクかアウグスブルクでレッヒ河に到達するだろう。アウエルシュテット公が軍と伴にラティスボンに到着する日を知らせるよう切望する」
Watson "By Command of the Emperor" p165

 既に9日にオーストリア軍が攻撃を始めていたことにナポレオンが気づいていなかったこと、さらにダヴーの部隊とマセナの部隊が遠く離れた場所に集結しつつある点にナポレオンが何の疑問も抱いていなかったことが分かる。
 だが、12日午後8時になってナポレオンはオーストリア軍が宣戦布告し、その軍が前進を始めたことを知った。となると彼が命じた布陣はダヴーを危険にさらすものになる。それに気づいたナポレオンは、あわてて自らの失敗を糊塗しようとした。10日に出したかのような命令をでっちあげ、腕木信号で送り、信号のトラブルでそれが遅れたために彼の意図が前線に届かなかったという体裁を整えたのだ、とWatsonは言う。
 史実のねじ曲げはその後も続いた。ナポレオン3世の下で編纂されたナポレオンの書簡集からは「たとえ何が起きようともダヴーはラティスボンに司令部を置け」と命じた記録が排除され(軍の文書館には残っている)、11日付けの命令もPicardのまとめた未編集のナポレオン書簡集にかろうじて入っただけだった。かくしてナポレオンの無謬性は保たれ、ミスはベルティエの責任になったというわけだ。

 Watsonの指摘はどの程度妥当なのだろうか。まずナポレオン3世がどのように書簡集をまとめたかは正直手元に書簡集がないので分からない。ただ、「たとえ何が起きようとも」と書かれた書簡自体は実はあちこちの本で普通に紹介されているし、こちらのサイト"http://www.histoire-empire.org/correspondance_de_napoleon/sommaire2.htm"にもある。少なくとも現代の研究者がこの書簡に触れるのは簡単だ。
 この命令の全文はかなり長く、そこから皇帝の意図を読み取るのは(私のフランス語読解力では)とても難しい。確かにダヴーに関してはラティスボンに行くように書かれているのだが、一方で15日より前に敵が攻めてきた場合には全軍をレッヒ河に再配置するように書いてあるようにも読める。
 となると、重要なのはWatsonが紹介している11日の命令文だろう。もし本当にこういう命令をナポレオンが出していたのだとすれば、彼がダヴーをラティスボンに布陣するつもりだった可能性が強まる。
 残念ながらこのPicardがまとめたという書簡集は手元にないし、ネットでもそれらしい文章は見あたらない。従って、Watsonの指摘する「ナポレオンが自分のミスを糊塗してベルティエに責任を押しつけた」説が正しいかどうかも、十分には判断できない状況だ。追加的な情報が入るまで、判断は留保した方がよさそうだ。

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