S. J. Watsonの"By Command of the Emperor"を読了。びっくりするような話がさりげなく出てくるところが最大の特徴ともいうべき本だった。ベルティエの伝記として、ほとんどは淡々と彼の経歴を紹介しているだけなのだが、時にあれっと思わせる話が登場するのである。その一つが、1809年のウィーンで起きた以下の挿話である。
「そして若い男が請願だと主張する文章を提出した。しかしベルティエは彼に対しはっきりと去るように命じ、そしてなお彼の態度に満足しなかったためラップ将軍に彼を引き取るよう命じた。ラップは彼を二人の憲兵に引き渡したが、彼らは三角巾に隠して彼が手に短剣を持っているのを発見した」
Watson "By Command of the Emperor" p174
ナポレオンの暗殺を試みたドイツの学生フリードリヒ・シュタップスが捕らえられるシーンだが、ここで驚きなのはこの場面にベルティエがかかわっているという点だ。普通、このシーンは以下のように紹介される。
「閲兵が始まる寸前に、ラップ将軍がひとりの挙動不審の青年を逮捕した」
長塚隆二「ナポレオン(下)」p355
「軍の一部を閲兵している時、シュタップスという名の若い18歳のドイツ人が請願を提出しようとするかのように皇帝に接近してきた。最後の瞬間、ナポレオンからたった1ヤード離れたところでシュタップスはナイフを抜こうとしたが、間一髪でナポレオンの副官長である用心深いラップ将軍に阻止された」
Chandler "Campaigns" p736
ナポレオンの副官であるラップが彼を捕まえた。一般的な歴史本ではそう書かれており、そこにベルティエの名は登場しない。なのにWatsonの伝記ではむしろ最初にシュタップスを阻止したのはベルティエだと紹介されているのである。
いったいどちらが正しいのか。Watsonは脚注でMathieu Dumasの本を紹介している。Gallica"http://gallica.bnf.fr/"にあるデュマの回想録を見ると、以下のように記されている。
「私がちょうど皇帝から離れ大きな階段の下にある自らの持ち場に戻った時、この人物が私の脇を通り過ぎた。彼が皇帝からたった10歩の距離まできた時、ちょうど私と話をしたばかりのヌシャテル公[ベルティエ]と会った。
公は彼になにをしに来たのか訊ねた。そして彼が書類を示しそれを皇帝に渡したいと言ったのに対し、公は彼を手で押し戻し、壁を形成している歩哨の背後まで下がるよう言った。しかしなお皇帝に近づこうとする彼に手を焼いたヌシャテル公はラップ将軍を呼び彼を下がらせるよう言った。
そして二人の憲兵が近づき彼を閲兵場から連れ出した。彼が憲兵に随行するのを拒んだため憲兵は彼が怪我のふりをするため吊り包帯で包んでいた腕をつかみ、そして彼が右手に短剣、というよりむしろ切断刀を持っているのを発見した」
Dumas "Souvenirs du lieutenant general comte Mathieu Dumas, Tome troisieme" p384-385
確かにまずベルティエがシュタップスを止め、その後でラップに命じて彼を下がらせるようにしたと書いている。ではラップ自身はどう記しているのだろうか。
「St***という名の若者が皇帝に向かって前進してきた。請願を提出しようとしているのだと想像したベルティエは前に出てそれを私に渡すよう彼に言った。彼はナポレオンと話をしたいと返答したが、連絡を取りたいのであれば任務に就いている副官に申請しなければならないのだと再び言われた。
彼は少し後退し、ナポレオンとだけ話をしたいと繰り返した。彼は再び前進し皇帝自身のすぐ傍まで接近した。私は彼を引き戻しドイツ語で下がるように言った。もし懇請したいことがあるなら閲兵後に聞くと。
彼の右手は大外套の下で脇にあるポケットの中へ突き出されており、そこに書類を持ってその一部が見えていた。彼が私を見た時、私はその目つきに衝撃を受けた。彼の決然とした態度は私の疑惑をかき立てた。私はそこにいた憲兵士官を呼び、彼を逮捕して城へ連れて行くよう命じた」
Jean Rapp "Memoirs of General Count Rapp" p141-142
ベルティエに命じられたとは述べていないが、最初にシュタップスの行く手を遮ったのがベルティエであることは彼も認めている。要するに複数の当事者が認めている事態の展開としては、まずベルティエがシュタップスの動きを止め、その後でラップが彼を憲兵に引き渡したという流れが正しいのだ。
にもかかわらず一般の本ではベルティエの行動が紹介されていない。何が理由でそうなったのかは分からないが、この件に関してはベルティエの扱いは不当だといえる。
他に驚くべき話としては、以下のようなものがある。1813年春季戦役中のことだ。
「彼[ベルティエ]の健康は依然として安心できる状態からは程遠かった。そして実際、スペインから呼び戻されたスールト元帥が、万が一ベルティエに代わって参謀長を務める必要がある時に備えて戦役の開始時点から司令部に配属されていた」
Watson "By Command of the Emperor" p211
脚注によるとこれはGeneral Rene Tournesの"La Campagne de Printemps en 1813. Lutzen" p96に書かれているようだ。本自体はこちら"http://www.galaxidion.com/home/catalogues.php?cpg=1&sortOrder=relevance&author=TOURNES+RENE&title=lutzen"などで売られている。
注目すべきなのは、ベルティエに万が一のことがあった際の後任候補として1813年の時点からスールトが考えられていたという点。ワーテルロー戦役の際にはスールトよりダヴーを参謀長にした方がよかったという歴史家が多いのだが、もしかしたらそれは当時の実情を無視した見解に過ぎないのかもしれない。
また、前に紹介した「イエナの戦いでナポレオンが連隊に直接命令を出した」という話も、ワーテルロー関連で注目すべきだ。デルロン軍団が攻撃時に巨大な縦隊を形成したことについて、ナポレオンはそんな細部まで命令することはないから彼の責任ではないと指摘する人もいるのだが、イエナの話が事実なら前提が崩れる。
さらにもう一つ、Watsonが通説に異論を提示しているものがあるのだが、それは次の機会に紹介しよう。いずれにせよ面白い本だった。
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