QWERTY本

 「キーボード配列QWERTYの謎」読了。著者が以前から自分のサイト"http://slashdot.jp/~yasuoka/journal/"などで指摘してきたことをまとめた本であり、タイプライターをはじめとしたキーボードの歴史を知るうえで役に立つ。同時に巻末に出てくる山のような参考文献を見れば、200ページ弱の本であってもそれを作るうえではどれほどきちんと調べなければならないかが分かる。
 キーボードの歴史そのものもさることながら、個人的に注目したのは著者があとがきで紹介したポール・アラン・デービッドの発言。QWERTY配列はタイピング速度を落として活字棒の衝突を防ぐために生み出されたものだとの間違った俗説に基づいて「経路依存性」の経済学を説明しようとした彼は、QWERTY配列の成立過程に関する認識が誤っているとの指摘に対して「私がQWERTYの経験から提起したかった理論的な問題を全く理解しようとしていない」と逆ギレしている。
 確かにこういう開き直りをすると、著者のように詳しく調べた人間から「ふざけるな、このエセ歴史学者」と批判を受けてしまうのは仕方ないだろう。著者はQWERTYを経路依存性や市場の失敗の例として取り上げるのは不適切だと言っている。デービッド批判者も要するにそれが言いたかったのだろう。それに対してデービッドがするべきなのは、QWERTYはタイピング速度を遅くするために発明されたものだという証拠を自ら探し出すか、例として適切でなかったことを認めて別の例を持ち出すかだ。「歴史的な証拠」より「理論的な問題」の方が大事だと開き直ることではない。
 ただ、ここで気になることがある。世の中には元になる資料に当たらず、二次的な資料に基づいて理論を構築している学問分野が、結構たくさんある。私が関心を持っている歴史の分野でも、近代世界システム完成以前の世界システムについて論じたアブー=ルゴドが、自分の論は全て他人の研究を下支えにしたものだと書いていた。マックス・ヴェーバーの研究を巡って二次的資料のみに基づく学問だってあるのだと主張している人を見かけたこともある。
 理屈としては当然それもありだろう。まともな研究者が記した本を基礎にして、その上に理論を構築していけば、その理論は一応事実に裏づけられたものとなる。それに、一人の人間が調べることができる資料の量には上限がある。世界システムのように極めて広い範囲をカバーした理論を作りたいと思った時に、世界中の一次資料に当たってその理論を裏付けていこうとするのは物理的に不可能。一次資料を参照しない学問の存在を頭から否定することはできない。
 だが本当にそれだけなのだろうか。二次的な資料のみに基づいて理論を構築している人々は、物理的に不可能だからという理由でそうしているのか。どうもそのあたりが疑問なのだ。そういう人々の間には、事実を地道に調べる「現場屋」よりも高尚で大掛かりな理屈を構成する「理論屋」の方が偉いのだという意識があるような気がしてならない。これは私の偏見に過ぎないのだが、少なくともデービッドの発言を見ているとその偏見にも論拠があると思える。
 どの本だったか忘れたが、理系の学問世界にもヒエラルキーがあると書いている人がいた。最も偉いのは物理学の理論家たちであり、地質学のように現場を這い回って材料を集めてくる人たちはヒエラルキーの下の方にいるという話だ。同じような傾向は文系の学問でも存在するのではないだろうか。歴史的な資料をひっくり返して事実を調べるという行為を見下している人が文系業界内に存在するのではないか。これ"http://cruel.org/other/foucault.html"のようなニューアカ批判が出てくるのも、そうしたヒエラルキーに対する「現場屋」の不満があるからかもしれない。

 たとえどんなにいい理論でも間違った事実に基づいていればその価値は大きく損なわれるはずだ。フレイザーは金枝篇を書くに際して自らフィールドワークをせず、他人からの情報にのみ基づいてあの本を記した。ところが彼の使った情報にはかなり怪しいものも混じっており、それが結果として彼の研究そのものへの批判へつながった。資料に対するフレイザーの「目利き」度は決して高くなかった訳だ。デービッドもそうだろうし、もしかしたらフーコーもそうかもしれない。
 フレイザーは金枝篇の研究で騎士に叙任された。デービッドがどれだけ有名なのかは知らないがフーコーは著名人だ。しかしそういう有名人たちであっても「目利き」度に疑問を持たれてしまう。それほど二次的資料にのみ基づく研究というのには困難が伴のだろう。だったら誰もがきちんと一次資料に当たるようにして、一次資料を調べていない研究は最初から誰にも相手にされないようにすればいいのだが、そうすると上にも述べた通り大きな理論の構築が極めて難しくなる。そして「大きな理論」というのは、読むだけなら結構魅力的だったりするのだ。
 著者は「孫引きや曾孫引きがエンエンと繰り返されてきた。学者ですらそんなテイタラク」と記しているし、同じようなことは「補給戦」を書いたヴァン=クレヴェルトも指摘している。そして、一次資料を当たる手間をサポった人間たちの中には、その事実を指摘されると「証拠」より「理論」の方が大事と開き直る者が存在する。ヒエラルキーの上位にいると思っている人は、下層階級がつまらない「重箱の隅」を突いているという不快感が先に立ってしまうのかもしれない。でも本当に大切なのは「理論」の精度を高めること。証拠に基づかない理論は砂上の楼閣だ。理論を作ろうとする人は、少なくとも「それは事実と違う」という批判に対しては謙虚であるべきなのだろう。そして、謙虚でない「理論屋」は信用しない方がいいのだろう。

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コメント

No title

安岡孝一
私たちの本を読んで下さってありがとうございます。去年の8月だったかにも書きましたが、経済学者の方々にMilwaukeeやWilmingtonの図書館やアーカイブを巡礼させるのは、ちょっと酷かなぁ、という思いもあって、こうして本の形にまとめることにしました。まあ、一次史料ってのは、それ自体、見つけ出すのが難しかったりしますし、しかも当然のように「ウソ」が含まれてますから、結構な手間だったりするのです。

No title

desaixjp
こちらこそ面白い本をありがとうございます。
おっしゃる通り、一次史料には「ウソ」も含まれていますね。それを見抜けるようになるには他の一次史料をより詳細に調べる必要が出てくるのでしょう。確かに手間がかかります。そういう地道な作業をする人と、そういう人の研究を生かして大きな理論を作る人との分業がうまくいけばいいのですが、そうでないケースが目立ってしまうのが悩ましいところかもしれません。
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