ナポレオン漫画続き。今月号では第85半旅団が壊走した話が出てくる。マセナの増援が到着する前の段階でフランス軍の左翼を受け持っていたのがこの第85半旅団と第29軽半旅団(ルブレー麾下)。しかし、ルブレーの部隊は左側面に回りこんできたリプタイ麾下のオーストリア軍第2縦隊(正規歩兵4個大隊と義勇兵6個中隊)の攻撃を受けて崩壊。フランス軍の戦線が左翼から崩れそうになったその時、マセナ師団が戦場へ駆けつけたという展開である(オーストリア軍の戦闘序列についてはこちら"http://www.napoleon-series.org/military/battles/c_rivoli.html"参照)。
左翼が崩れかけたところにマセナが増援に訪れたのはおそらく間違いないだろう。「ナポレオン戦線従軍記」を記したフランソワ・ヴィゴ=ルシヨン(マセナ師団第32半旅団所属)はリヴォリの戦いについて「第三十二半旅団と第七十五半旅団の二個大隊は、マセナ将軍みずらの指揮を受け、ジュベール師団の左翼を援護しながら敵の中央へ向かって行った」(p60)と記している。では、左翼で敵の攻撃を受けて崩れたのは第85半旅団で間違いないのだろうか。
実は戦闘直後の報告などではこの件は明確に触れられていない。たとえば1月17日にボナパルトが総裁政府に出した報告ではリヴォリの戦いについて「私は夜にそこ[リヴォリ]へ行き、そしてリヴォリの戦いが行われ、我々は執拗な抵抗の後に[雪月]25日と26日[1月14―15日]に勝利を得て敵1万3000人を捕虜とし、いくつかの軍旗と大砲を奪った」(Correspondance de Napoleon Ier, Tome Deuxieme"http://books.google.com/books?id=K1cuAAAAMAAJ" p248)と、極めて大雑把にしか記していない。左翼の動向など全く不明だ。
1月18日付の報告書ではもう少し詳細な話が書かれている。それによると「我々の左翼は激しく攻撃され、後退し、そして敵は中央部隊へ向かった」(Correspondance de Napoleon Ier, Tome Deuxieme"http://books.google.com/books?id=K1cuAAAAMAAJ" p255)そうだ。それに対し「私が左翼立て直しのため送り込んだ第32[半旅団]が姿を現し、奪われた陣地を全て奪回し、そして、師団長マセナに率いられて戦況を完全に回復した」(p255)。ヴィゴ=ルシヨンの証言と基本的に一致している。問題は、ここにも第85半旅団の名がないことである。
結局、第85半旅団の名がきちんと出てくるのはベルティエが書いた報告だ。「彼[ボナパルト]自身は左翼へ向かった。彼がそこへたどり着く間に、第29[軽]と第85半旅団の戦線は完全に押し込まれていた」(Campagne du General Buonaparte en Italie, Tome II."http://books.google.com/books?id=4ARXyag379AC" p72)。ただし、これも決して十分な表現とは言えない。少なくともこれを見た限りでは左翼の崩壊において第29軽半旅団と第85半旅団のどちらに責任があるのか不明だ。
ほぼ同時代の史料が当てにならないのなら、少し後の時代の史料を調べてみよう。まずセント=ヘレナのナポレオンだ。彼はリヴォリ高地左翼を守っていたフランス軍について「右側に布陣していた第14[半旅団]は敵の攻撃を撃退した。第85[半旅団]は側面から包囲され、崩壊した」(Memoires pour servir a l'histoire de France sous le regne de Napoleon, Tome Deuxieme"http://books.google.com/books?id=1rcNAAAAIAAJ" p73)と述べている。左翼崩壊の原因が第85半旅団にあると判断したからこういう書き方になったと思われる。
別の場所では「優勢な兵力と大いなる決断力で我々の左翼へ敵が前進してきた時、もっと断固とした態度であれば陣を維持できたであろう第29[軽半旅団]及び第85[半旅団]が退却を強いられ、敵はトロンバローラを奪回した」(Memoires pour servir a l'histoire de France sous le regne de Napoleon, Tome Quatrieme"http://books.google.com/books?id=1roNAAAAIAAJ" p59)と指摘し、第29軽半旅団と第85半旅団の双方を非難している。
他にはティエボーの回想録がある。彼がボナパルトの命令を伝えようと「第85半旅団から300歩の距離まで近づいたときにその部隊は総崩れになった」(Memoires du general Bon Thiebault, II"http://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k201548m" p53)。ここでは批判対象は主に第85半旅団であり、第29軽半旅団については言及はあるものの特に非難してはいない。ちなみに漫画の中でオーストリア兵がマセナに向かって「捕虜だ」と言いながら迫るシーンはティエボーの回想録(p55)に拠ったものであろう。
当事者はどう言っているのか。こちら"http://www.simmonsgames.com/research/authors/SpectateurMilitaire/HistoireRegimentaireItalie/TOCFrench.html"にはイタリア遠征に参加した各半旅団や連隊の「公式戦史」をまとめた史料がある。まず第29軽半旅団の記録を見ると「当初は第3大隊が激しい射撃によって対峙していたが、第85[半旅団]が陣を放棄したため大隊は2方面から砲火に晒された」"http://www.simmonsgames.com/research/authors/SpectateurMilitaire/HistoireRegimentaireItalie/29LightFrench.html"とある。悪いのはオレたちじゃなくて第85半旅団だ、という主張である。
では第85半旅団の戦史"http://www.simmonsgames.com/research/authors/SpectateurMilitaire/HistoireRegimentaireItalie/85LineFrench.html"はどうなっているのか。これが実はよく分からない。12月中旬にモンテ=バルドやコロナで戦闘を繰り広げていたという記述はあるのだが、12月時点においてこの方面で激しい戦闘が交えられたという記録は他には見当たらない。一方、1月の戦闘については26日以降の記述しかなく、14―15日に行われたリヴォリの戦いについて明白に言及した部分はない。12月中旬の話が実は1月の間違いだとしても、最も重要な14日の戦闘について公式戦史は沈黙したままだ。
連隊公式戦史は自分たちにとって都合の悪い話についてはしばしば沈黙する。嘘を書くのではなく、そもそも言及しないことで不都合な話を避けて通るのが公式戦史の特徴である。そう考えるなら、14日の戦闘について堂々と述べている第29軽半旅団より、その前後の記述を曖昧にして逃げている第85半旅団の方にとって困った事態が生じていたと考えるべきだろう。要するに第85半旅団がリヴォリの戦いにおいて壊走したのは、おそらく史実である。
ボナパルトが直後の報告で壊走した部隊の名前を記さなかったのは惻隠の情だろう。公式報告に失敗を載せることで部下たちの士気低下を招くよりはマシと判断したのではないか。それでも腹に据えかねていたことは、そうした配慮の必要がない回想録で堂々と指摘していることからも窺える。ベルティエの報告書でも、壊走した翌15日の戦闘について「第29[軽]及び第85半旅団はこの日は評価に値する行動を取り、[雪月]25日[1月14日]の戦闘で見せた懸念を払拭した」(Campagne du General Buonaparte en Italie, Tome II."http://books.google.com/books?id=4ARXyag379AC" p81)と記されており、司令部がこの部隊に対して不満を抱いていた様子が分かる。
では、軍旗の件はどうなのだろう。
漫画でも記されているが、第85半旅団に関しては軍旗に「彼らはもはやイタリア方面軍にあらず」(Ils ne sont plus de l'armee d'Italie)と書かれていた、という話が伝わっている。その裏付けとして紹介されるのがナポレオンの書簡集にある「第39及び第85[半旅団]の兵士たちよ、諸君はフランス兵にあらず。参謀長は彼らの軍旗にこう記した。彼らはもはやイタリア方面軍にあらず」という布告(Correspondance de Napoleon Ier, Tome Deuxieme"http://books.google.com/books?id=K1cuAAAAMAAJ" p103)。1796年11月にヴォーボワ麾下にあった両半旅団の行動に不満を持ったボナパルトが発したものだそうで、Boycott-Brownもこの布告を"The Road to Rivoli"のp454で引用している。
だが、ここでもう一度書簡集に注目してほしい。よく見ると引用元がMemoires de Napoleon。つまりこの布告はMemoires pour servir a l'histoire de France sous le regne de Napoleon, Tome Deuxieme"http://books.google.com/books?id=1rcNAAAAIAAJ"のp8に書かれていた文章をそのまま引き写したものなのである。セント=ヘレナで語られた文章を、果たして信じていいものだろうか。
上にも記した通り、ナポレオンは部下の士気を考えて本音では不満を抱いている部隊についてもある程度「大人の対応」をしてきた。それは1796年11月時点の第85半旅団についても同じ。11月13日に総裁政府に出した報告では「第85半旅団は、その価値にも関わらず手ひどく扱われた」(Correspondance de Napoleon Ier, Tome Deuxieme"http://books.google.com/books?id=K1cuAAAAMAAJ" p108)と記しており、その敗北を報じながらきちんとフォローを入れている。
しかし軍旗に「イタリア方面軍にあらず」などという文章を入れてしまうと、もはやフォローのしようもない。それで部隊が発奮すればいいが、逆にモラル低下を招くような事態になれば最悪だ。個人的には、たとえ書簡集に収録されているとしても、この話は史実ではない可能性が高いと見ている。
コメント
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http://books.google.co.jp/books?id=MHMuAAAAMAAJ(p.222)
ラス・カーズ本のほうが少しだけはやく出版されているので、後発本がラス・カーズを参考にしたのか、あるいはグールゴー、モントロン、ラス・カーズが同席したときにナポレオンがこの話を語ったのかはわからないですが。
2008/05/06 URL 編集
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2008/05/08 URL 編集
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2008/05/08 URL 編集
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2008/05/08 URL 編集