第4ユサール連隊

 シェヘラザードさんのところ"http://blog.livedoor.jp/sheherazade/archives/51158125.html"で話題になっているスパイ、シュルマイスターから派生した話を。こちらの事典"http://books.google.com/books?id=Gyfzq2EpfXEC"のp421-424にはシュルマイスターが紹介されているのだが、それによると彼は15歳の時にコンフラン・ユサール連隊(Conflans-Hussards)に入隊している。生年が1770年なので彼が入隊したのは1785年。仏語のwikipedia"http://fr.wikipedia.org/wiki/4e_r%C3%A9giment_de_hussards_%281791-1793%29"を見ると確かにコンフラン・ユサール連隊が存在する。
 wikipediaの記事によれば同連隊はまず1743年にフィッシャー猟騎兵連隊として設立され、61年にコンフラン竜猟騎兵連隊(Dragons-Chasseurs de Conflans)に、63年にコンフラン・レギオン(Legion de Conflans)に、そして76年からコンフラン・ユサール連隊になったそうだ。89年にはサックス・ユサール連隊に名を変え、革命後の91年には第4ユサール連隊になった。
 問題になるのはその後。wikipediaの記事の冒頭にはこの連隊について「デュムリエ将軍と伴に敵に寝返った」と記している。だが、年表部分を見ると裏切り後に同連隊の番号を第5ユサール連隊が引き継いだと記されている年月日が、1792年5月4日。デュムリエが裏切って連合軍へ走ったのはそれから1年近く後の1793年4月だ。これは一体どういうことか。

 第4ユサール連隊が連合軍側に寝返ったのが1792年であることはほぼ間違いがない。こちら"http://books.google.com/books?id=T6gNAAAAIAAJ"に当時のモニトゥールの記事がまとめられているのだが、p387には1792年5月14日に議会で行われた報告が紹介されており、その中に第4(サックス)ユサール連隊の話が載っている。

「当該県[下ライン]からの他の報告によると、サックス・ユサール連隊の全士官たちが反乱した。彼らは大佐を先頭に敵へ寝返った。指揮官たちはリュクナー将軍とヴィクトール・ブローリー将軍がドイツへ脱走したと兵士たちに信じ込ませた。18人の兵たちが守備隊に戻ってきた」

 議会で報告された話が公報であるモニトゥール紙に載ったのだから、第4ユサール連隊が1792年に脱走したのは史実だろう。ただ、上の報告にもあるように騙されて連れ出された兵士もいたようで、同書p391には軍曹の率いる92人と馬匹88頭が戻ってきたという報告がある。数で言えば1個大隊定数の半分程度であるが、wikipediaにあるように全連隊がまとめて脱走してしまったとは言い切れないようだ。
 それにしてもなぜwikipediaは同連隊がデュムリエと一緒に逃亡したと書いてしまったのだろうか。考えられるとしたらデュムリエの回想録"http://books.google.com/books?id=dQCaLJS9DrgC"に書かれている以下の記事が原因かもしれない。

「この時、将軍[デュムリエ]にはベルシニー連隊の2個大隊、サックス・ユサール連隊の1個大隊、胸甲騎兵50騎、及びブルボン竜騎兵の1個大隊が随行していた」
Memoires du General Dumouriez, Tome Second, p205

 この時とはデュムリエが少しでも多くの兵を自分の味方につけようと必死で説得していた1793年4月のこと。結果的に彼の説得はほとんど効果を表さず、デュムリエはパリへの進軍を諦めて連合軍へと身を投じることになる。彼についていった兵士の数は限られており、同年5月12日時点で歩兵458人、ブルボン竜騎兵と軽騎兵が計215人、ユサールと重騎兵が計209人だったという(Arthur Chuquet "The Wars of the Revolution, V" p152)。デュムリエが言及したのはサックス・ユサールのうちの1個大隊(escadron)のみ。wikipediaはそれをどこかで間違えて1個連隊(regiment)全部としてしまったのだろう。

 だがそれで問題が解決する訳ではない。疑問がもう一つ残っている。そもそも1792年に国外へ脱走した連隊の所属部隊が、どうして1年後にデュムリエに随行していたのか、という問題だ。これについてWilliam D. Petersonは1792年に大半が脱走したが、一部はフランス国内に残っていたと記している("The Wars of the Revolution, V" p150)。そうやって残っていた連中の一部がデュムリエの随行をやっていた可能性がある。
 そして中には1792年の脱走に同行せず、デュムリエにもついていかなかった連中がいたようだ。こちら"http://www.7ehussards.org/historical/history.htm"にもそうした話が書かれているし、より詳しくはこちら"http://books.google.com/books?id=awjgNbikpnsC"のp187にある。軍旗と伴にフランスへ戻ってきたサックス・ユサール連隊第4大隊などで構成されていたモーゼル・レギオンが第7ユサール連隊に吸収されたという話だ。彼らはそうやってフランスに残ったのだから、デュムリエの随行はやっていなかったのだろう。デュムリエに随行していたのが何番目の大隊なのかは分からない。

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