以下の話はナポレオン漫画のネタバレになる可能性があるが、そもそも歴史漫画は結論が分かっているのが当たり前なので気にしないようにしよう。ボナパルトの第一次イタリア遠征の際にオーストリア軍の将軍として活躍したプロヴェラについての話だ。
対フランス戦でプロヴェラの名が最初に表に出てくるのは1796年4月のコッセリアの戦いだ。ナポレオン漫画でもイタリア遠征の初期段階で崩れかけた城"http://www.napoleon-series.org/military/virtual/c_millesimo.html"を攻める話があったが(憶えている人はどのくらいいるだろうか)、あの廃城に立てこもって抵抗していたのがプロヴェラだ。ちなみに城を攻めた部隊の中にはジュベールが率いたものもあり、彼はこの戦いで負傷している。
プロヴェラがこの廃城で抵抗したのはほとんど成り行きだったらしい。それが証拠にこの城には水源すらなく、激しい抵抗こそしたものの結果的には短期間で降伏を余儀なくされた。プロヴェラは正式な捕虜交換の対象になるまでフランス軍とは戦わないと約束することで解放された(Martin Boycott-Brown "The Road to Rivoli" p243)。この時代には降伏した上級士官がそうやって解放されることは珍しくなかったようだ。
やがて正式な交換がなされたのか、1796年の秋ごろからプロヴェラは再び対フランス戦に参加する。アルコレ戦役の際にアルヴィンツィは自ら率いる縦隊を前衛、主力、予備の3つに分けたが、このうち主力部隊の指揮はプロヴェラに任せた。1万7000人強がプロヴェラの指揮下にあったことになる。
リヴォリ戦役においてプロヴェラは約9000人の別働隊を率いアディジェ下流域で戦った。オージュローがいたレニャーゴに現れて彼らを攻撃していたのがプロヴェラの部隊だ。彼はオージュローの隙を突いてアディジェ川を渡るのに成功するが、その後で後衛部隊をオージュローに攻撃されて失い、さらにマントヴァ前面に到着したところでセリュリエ、オージュロー、そしてリヴォリから転進してきたマセナの部隊などに囲まれて降伏に追い込まれた。1年弱で2回もフランス軍に降伏したことになる。
とまあボナパルトに関連する場面では何をしたのかそれなりに知られている人物なのだが、それ以外の局面で何をしていたのかとなると実はさっぱり分からない。例えばこちら"http://www.literature.at/webinterface/library/COLLECTION_V01?objid=11104"にはオーストリアの人名事典があるのだが、そこでプロヴェラを調べてみてもフルネームも生年も不明。ロンバルディア生まれであること、フランス革命戦争前には七年戦争やトルコ(オスマン帝国)との戦争にかかわったことくらいしか分からない。
google bookには様々な人名事典がアップされているが、そちらを見ても上の本と似たような水準の記述ばかり。その中で比較的まともなBiographie universelle"http://books.google.com/books?id=l5hQESW0GyIC"のp105-106を見ても、やはりフルネームは不明のままだ。ただ、生年が1740年、生地はパヴィアでロンバルディアの古い家系であることが分かる(つまりイタリア人)。対オスマン戦ではラウドン元帥の下で働き、フランス革命戦争の当初はネーデルラント方面で従軍していたようだ。
彼がリヴォリ戦役で降伏したことはオーストリアの宮廷にはかなり衝撃だったようで、数日後にプロヴェラが宮廷に姿を現した時に皇帝フランツは彼に会うのを拒否したとか。しかしすぐ彼の立場は復活し、同年9月に教皇からローマの軍を率いる将軍を求められた際には皇帝はプロヴェラを送り出している。ただしフランス共和国の駐ローマ大使であったジョゼフ・ボナパルトの反対によってこの任命はキャンセルされた。Memoires et correspandance politique et militaire du roi Joseph"http://books.google.com/books?id=urYFAAAAQAAJ"にもそれに関連した話が載っている。
その後、彼はナポリから生まれ故郷のパヴィアへと移り、そこで1804年に死去した。ただしBoycott-Brownが記している年表"http://www.historydata.com/chronologies/1800.html"によれば、1804年7月5日にプロヴェラが死去したのはヴェネツィアとなっている。
さて、では彼のフルネームは何というのだろうか。Boycott-BrownによればProvera, Marchese Giovanni"http://www.historydata.com/biographies/index.html"となっているが、Marcheseマルケーズとはイタリア語で侯爵のこと。つまりこれは人名ではなく称号である可能性がある。だとすれば彼の名はGiovanni Proveraというシンプルな名前になりそう。そして実はこの名前で検索すればwikipediaの記事が引っかかってくる"http://fr.wikipedia.org/wiki/Giovanni_Provera"のだ。見ての通り、中身はほとんどないに等しいけど。
以上、色々調べてきたが、結局のところ詳細は分からないままである。特にコッセリア以前にどこで何をやってきたのかについては極めて大雑把なことしか判明していない。いつ軍に入り、いつから士官になり、将軍まで昇進したのはいつなのか。どこの戦場にどのような立場で居合わせ、そこでどんな活動を行ったのか。彼の性格についてもほとんど分かることはない。かろうじてBiographie universelleが「この将軍は勇敢さも才能も不足してはいなかった」(p106)と記している程度だ。
ボナパルト将軍がイタリアで戦ったオーストリアの将軍たちについては様々な形で情報を得ることができる。代表例がこちらのサイト"http://www.napoleon-online.de/AU_Generale/"で、ここにはボーリュー、アルヴィンツィ、クォスダノヴィッチ、ヴルムゼル、ヴカソヴィッチといった漫画に出てきた将軍たちが紹介されている。いや、それ以外にもアルジェントー、バヤリッチ、カント=ディルレス、ダヴィドヴィッチ、デュカ、ルシナン、ヴァイローテルなどまで載っているのだ。
でもプロヴェラはいない。バヤリッチやルシナンが率いていたよりも多くの部隊を指揮した事実があるにも関わらず、彼の名はない。なぜここまで扱いが寂しいのか、全くもって謎の多い人物である。
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