イエナ再訪

 イエナの戦い時におけるベルナドットの動向について、こちら"http://www.asahi-net.or.jp/~uq9h-mzgc/g_armee/dornburg.html"で分析したことがある。今回はそれに関連する追加情報。S. J. Watsonの書いたベルティエの伝記に、この話についていくつか面白い指摘がある。
 まず彼はナポレオンが会戦の前日からイエナに到着し、戦場を詳しく調べたことがその後の判断に影響したと記している。

「彼[ナポレオン]はいつも彼自身で物事を見ることに多大な重要性を認めていた。というのも、彼がオメーラ[セント=ヘレナにいた英国人]に述べたように『他人の目を通じて見る将軍は指揮されることはあっても軍を指揮する立場になることは決してない』ためだ。
 この助言はより低いレベルの指揮官に対してはすばらしいものだったが、最高指揮官による戦闘前夜の個人的偵察は重要地点を極めて正確に定めることが必要条件となる。もしその判断を間違えれば、ある特定の地域における出来事から過度の影響を受けることで全計画が危険にさらされかねないからだ。
 実際、そうした事態がまさに起きた。プロイセン王とブラウンシュヴァイクの主力軍及びカルクロイトの予備軍は正午にヴァイマールを離れ、カペレンドルフの高地に配置されたホーエンローエの部隊に援護されながらライプツィヒへと後退した。かくして今やナポレオンの正面にはプロイセン軍の後衛部隊だけが残されたのだが、彼は敵の全軍と交戦に入るものと思っていた」
Watson "By Command of the Emperor" p139

 Watsonはナポレオン自身が事態を正確に把握していなかったと主張している。その一つの証拠として彼が提示するのが、イエナ会戦の翌15日未明に皇帝がジョゼフィーヌ宛に出した手紙だ。

「私はプロイセン軍相手にいくつかのすばらしい機動を行った。昨日、私は偉大な勝利を得た。彼らは15万人おり、私は2万人を捕虜にして100門の大砲と軍旗を奪った。プロイセン王を間近に見る場面もあり、彼と王妃をほとんど捕らえるところだった」
Watson "By Command of the Emperor" p142

 実際にイエナでナポレオンの前にいたのはホーエンローエとリュッヘルの軍勢計5万人程度。もちろんそこにはプロイセン国王も王妃もいなかった(彼らはブラウンシュヴァイクの主力軍と伴に行動していた)。
 この手紙はこちら"http://www.histoire-empire.org/correspondance_de_napoleon/1806/oct_02.htm"によると10月15日午前3時に書かれたものとなる。ほんの1時間前にダヴーからアウエルシュタットの戦いに関する報告を受けた後もなお、ナポレオンはイエナにいたのがプロイセン軍主力だと信じていたことがうかがえる記述だ。
 ナポレオンがイエナの敵に関心を集中させすぎたのは、彼が事前にイエナこそ「重要地点」だと思いこみ、その判断を疑うことなく行動したことが理由。Watsonはそうに解釈している。実際、ナポレオンはイエナの戦場にかなり深くコミットしたという。

「しかしながら皇帝が会戦を操るために前に出すぎ、彼の周辺で行われた戦闘の変化にあまりに関与しすぎて第5及び第7軍団の所属連体にまで直接命令を出したことは記すに値するだろう。
 さらに悪いことに彼は参謀長も最前線に呼び、狭い地域の課題に集中させたため、6マイル遠方のウテバッハ高地でベルナドットの第1軍団が無駄に待機している間にハッセンハウゼンとアウエルシュタットでダヴーの2万5000人の部隊が6万人のプロイセン軍と絶望的な闘争に巻き込まれていることを忘れさせてしまった」
Watson "By Command of the Emperor" p141-142

 要するにベルナドットの部隊が遊軍と化してしまった最大の理由は、ナポレオンが目の前で起きている事象にとらわれすぎたことにあるという訳だ。ベルナドットは「命令を厳密に文字通り実行し、無神経にアポルダへ行軍しそこで午後4時にたどりついた」(Watson "By Command of the Emperor" p139)だけ。気の利かない行為ではあったが命令違反はしていないというのがWatsonの見方だ。
 Watsonの本が最初に出版されたのは1957年。もっと前にもMaudeが同じ主張をしている。ベルナドットの行動に関する議論は、ずっと昔から同じ事を繰り返してきたのかもしれない。

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