リヴォリ前夜

 改めて今月のナポレオン漫画の予想外――ジュベール将軍の登場とブリュヌの再登場。正直どちらも想定外だった。最大の予想外――ルイーズの素顔――に比べればどうってことないが。
 前回指摘した通り、12月にフランス軍が入手したオーストリア軍の手紙には具体的な作戦計画については記されていなかったと考えられる。となれば実際に攻撃を受けた時、ボナパルトがその対処に悩んだのも無理はない。その意味で今回は結構史実通りのストーリー展開になっていたと思われる。ただし史実のジュベールがおっぱい星人だったかどうかは不明。

 オーストリア軍の攻撃を最初に受けたのはアディジェ下流域に展開していたオージュローの軍勢だ。こちら"http://books.google.com/books?id=y1wuAAAAMAAJ"のp385-386には1月9日付でオージュローがボナパルトに出した報告書が掲載されている。彼はモンタニャーナに歩兵3000と騎兵800、エステに歩兵4000と騎兵500がいると書いており、アディジェ下流にオーストリア軍が主力を差し向けているのではないかと考えていたようだ。
 この手紙がいつボナパルトの下に届いたかについては複数の意見がある。この時、ボナパルトはトスカナ大公との交渉のためボローニャにいたのだが、10日に連絡を受けたとしているのがMartin Boycott-Brown("The Road to Rivoli" p495)で、11日夕方だとしているのがRamsay Weston Phipps("The Armies of the First French Republic, Volume IV" p127)。ベルティエの報告によればボナパルトの下に連絡が届いたのはニヴォーズ21日(1月10日)夜("http://books.google.com/books?id=4ARXyag379AC" p66)とあるので、Boycott-Brownの方が正解だろう。いずれにせよ、ボナパルトは11日にトスカナ大公と協定を結んだ("http://books.google.com/books?id=85jrswh0Sd0C" p233-234)うえでオーストリア軍へ対処すべく司令部へ向かった。
 最初の段階では彼はオージュローと同様、アディジェ下流こそオーストリア軍主力が攻撃を仕掛けてくるところだと睨んでいた様子が窺える。12日付で彼はベルティエ、マセナ、デュギュア、レイなどに命令を出している("http://books.google.com/books?id=85jrswh0Sd0C" p234-237)のだが、マセナに対しては夜のうちにレニャーゴへ向かうのが司令官の意図だとしているし、デュギュアに対してもレニャーゴへ向かうよう命じている。また、オージュローに出した命令では、ジュベールが展開している北方戦線は安定しているとも書いている。
 後にセント=ヘレナでリヴォリ戦役について回想したナポレオンは、信頼していたデュフォー将軍(オージュロー師団の前衛部隊指揮)から正面に2万人の敵がいるとの報告を受けていたこと、及びジュベールからは12日時点で敵の攻撃を持ちこたえたとの連絡があったことを記している("http://books.google.com/books?id=bVsRAAAAYAAJ" p256)。となればマセナへの命令に書いているように12日夜にもレニャーゴへ向けて増援を送り出してもよさそうなもの。しかしボナパルトはそうしなかった。おそらく、できなかったというのが正しい。
 12日にボナパルトが命令を出した時、司令部はロヴァベラにあった。つまりボナパルトはヴェローナで何が起きているか知らないままマセナに命令を発していたことになる。実はこの日、ヴェローナへ向けて前進中だったバヤリッチの部隊とマセナの前衛部隊がアディジェ左岸のサン=ミケーレで戦闘を交えていたのだ。マセナの主力もアディジェ左岸へ移動しており、その日の夜にレニャーゴへすぐ移動できる状況にはなかったように思われる。結局、ボナパルトはマセナに対し部隊をアディジェ右岸に引き上げるよう命じるにとどまった。
 そして、理由は不明だが、ここでボナパルトはもうしばらく状況を観察してから動くことを決断したようだ。この慎重な対応がリヴォリ戦役における勝利をボナパルトにもたらすことになる。マセナ師団をヴェローナ近辺にとどめたまま、彼は13日午前9時にジュベールに対し、より詳細な状況を伝えるよう求める手紙を出す("http://books.google.com/books?id=85jrswh0Sd0C" p238)。漫画では敵の数が「1万人以上であれば」云々としているが、実際のボナパルトの命令書では「9000人」とか「9000から1万人」という表現になっている。
 漫画の「たまらん時間」は実際にかなり辛い待ち時間だったようだ。セント=ヘレナのナポレオンは「13日になってもどちらへ向かうべきなのか分からなかった」("http://books.google.com/books?id=bVsRAAAAYAAJ" p256)と述べているし、マルモンによれば「ボナパルトは極めて当惑していた。24時間の間、彼の馬車は馬をつないだまま、アディジェを遡るのか下るのか覚束ないままだった」("http://books.google.com/books?id=WXsvAAAAMAAJ" p251)。漫画でも馬車を準備したまま待機している様子が描かれている。
 ボナパルトの問い合わせに対し、ジュベールは「敵は私をマントヴァ包囲軍またはペシェーラまで押し込もうと全力をあげている」(Boycott-Brown "The Road to Rivoli" p503)と報告を寄越した。この報告を受けて敵の主力がジュベールの方角にいると確信したボナパルトは動き出す。13日午後3時から彼は麾下の将軍たちに矢継ぎ早に命令を出した。ヴィクトールやセリュリエへの命令では「敵の動きはいまや明らかになった」("http://books.google.com/books?id=85jrswh0Sd0C" p238-239)と記し、レイ、マセナ、ルクレールへの命令にはリヴォリという地名をはっきりと出している("http://books.google.com/books?id=85jrswh0Sd0C" p239-241)。
 12日にはレニャーゴ方面の可能性が高いと踏んでいたボナパルトが最終的に13日午後になって判断を覆した点からも、彼が事前にオーストリア軍の作戦を知っていたという理屈が成り立たないことが分かる。大デュマの回想録に載っているあの「追伸」はこうした一連の流れと矛盾しており、従ってやはりでっち上げである可能性が高い。
 ちなみにセント=ヘレナのナポレオンは話に劇的効果を持たせようとしたのか、ジュベールとアディジェ下流からの報告が午後10時になって届いたと記している("http://books.google.com/books?id=bVsRAAAAYAAJ" p257)。もちろんこれは史実ではないだろう。彼自身が13日に出した命令書に午後3時という言葉がはっきり記されている以上、その時点で何らかの報告が既にボナパルトの手元に届いていたと考えた方が妥当だ。ちなみにナポレオンの回想によればこの時は雨が降っていた("http://books.google.com/books?id=bVsRAAAAYAAJ" p256)そうで、だとしたら漫画のシーンは史実とは少し違っていることになる。
 リヴォリへ向かうボナパルトのところにブリュヌがやってくるシーンがあるが、これは漫画ならではの描写。ブリュヌがイタリア方面軍配属になったのはGeorges Sixによると1796年9月28日。10月にマセナ師団に所属し、11月のアルコレの戦いにも参加しているそうであり、この時に慌てて駆けつけたのではない。ボナパルトが1月18日に総裁政府宛に出した報告書でも、12日のサン=ミケーレの戦いに参加したブリュヌが、部隊の先頭に立ち服に銃弾の穴が7つできたと記している("http://books.google.com/books?id=85jrswh0Sd0C" p254)。
 14日午前2時、リヴォリに到着した場面はセント=ヘレナで語ったシーンが元ネタだろう。降っていた雨はやみ「天候は晴れ、あたりは美しい月の光に照らされていた。ナポレオンはいくつかの高地に上り、敵の様々な焚き火の線を観察した。彼らはアディジェとガルダ湖の間の地域を埋め尽くしていた。空は彼らによって赤く染められていた」("http://books.google.com/books?id=bVsRAAAAYAAJ" p258)。かくしてマントヴァ要塞を巡る最後の戦いが始まる。

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