尻尾をつかまえたぞ。
ナポレオン漫画最新号だが、まずは前回に調べきれなかった話を。デュマ将軍が1796年12月に密使から入手したオーストリア軍の命令書の内容が分かった。これまで判明していたのはMartin Boycott-Brownが指摘した「3週間から1ヶ月しないと新たな作戦を試みることはできない」という内容のもの。引用元はSchelsの本だ。もう一つはJohn G. Gallaherが紹介している文章。
「おそらく私の移動は1月13日か14日まで始まらないだろう。私は3万人の兵力とともにリヴォリの平野を通って前進し、一方でプロヴェラ将軍の1万人は大量の補給部隊とともにアディジェ川のレニャーゴへ前進する。砲声が聞こえた時は、彼の前進を支援するため要塞から出撃するように」
Gallaher "General Alexandre Dumas" p77
この文章の引用元は大デュマの残した回想録第1巻76ページ。Gallaherによれば日付不明な手紙の中の「追伸」部分に書かれているという。前回は元の文章が分からなかったためこれ以上詳しい分析はできなかったが、実はオリジナルの文章は簡単に見ることができた。大デュマの回想録はgoogle bookに載っているのだ。こちら"http://books.google.com/books?id=FUovAAAAMAAJ"のp75-76には、デュマ将軍が入手した手紙の全文と称するものが載っている。
見れば分かるように日付は「不明」ではない。一番最初に「トレント、1796年12月13日」と書いてある。手紙の構成はまずアルヴィンツィが12月5日付で皇帝から手紙を受け取ったことを述べ、次にその手紙の写しがあり、さらにアルヴィンツィの文章が続き、署名の後にGallaherが紹介している追伸が載っている。原文を見る限り、Gallaherの訳のうち冒頭は「13日か14日には実行されるだろう」に、「リヴォリの平野」は「リヴォリの台地」に、プロヴェラ将軍については前進するではなく「[アルヴィンツィが]送り出した」にした方がよさそうに思える。
手紙の中に皇帝からの命令の写しが入っていることは、ボナパルトが総裁政府に12月28日付で送った手紙の中にも言及されている。重要なのはアルヴィンツィ自身がどの程度、自らの作戦計画について記述していたかだ。そう思って改めてデュマの文章を読むと、追伸の前に書かれている部分に目が留まった。
「現在の状況と軍の欠乏状態に鑑みるなら、3週間から1ヶ月後にならないと成功することができない危険に再び晒されることなく新たな作戦を試みることは許されない点を付け加える」
これはBoycott-Brownが紹介した文章そのままである。一体どういうことだろう。もしかしたらBoycott-Brownが引用したSchelsの文章と、Gallaherが引用した大デュマの文章というのは、実は同じものなのだろうか。それを確認すべくgoogle bookで再び検索を試みた。検索ワードは"trois semaines ou un mois"とMantoueだ。すると、この文章を含んだ本がいくつが引っかかってきたのだ。以下に私が見つけたものを記しておこう(括弧内は出版年)。
Correspondance inedite officielle et confidentielle de Napoleon, Italie. Tome Deuxieme (1819)"http://books.google.com/books?id=y1wuAAAAMAAJ" p374-375
Memoires tires des papiers d'un homme d'etat, Tome Quatrieme (1831)"http://books.google.com/books?id=cdYJAAAAIAAJ" p138-140
Histoire de Napoleon, Tome Premier (1834)"http://books.google.com/books?id=dlQuAAAAMAAJ" p174-175
さらに英訳されたものも発見した。
The Life of Napoleon Bonaparte (1837)"http://books.google.com/books?id=js0vAAAAMAAJ" p441
The Bonaparte Letters and Despatches, Volume II. (1846)"http://books.google.com/books?id=3G0DAAAAYAAJ" p169
大デュマの回想録が出版されたのは、こちら"http://www.cadytech.com/dumas/work.php?key=245"によると1852年から55年にかけて。上に紹介した一連の文献よりも後である。そして、上に紹介した文献と大デュマの回想録に載っている手紙の中身はほとんど同じなのだが、一つ大きな違いがある。それは「追伸」部分。見れば分かる通り、「追伸」が存在するのは大デュマの回想録のみ。他の文献はどれを見ても追伸など存在しない。
古い文献に存在しない「追伸」が大デュマの文章にのみ登場する。これは一体どういうことか。改めて追伸の部分を読んでみると、そこに紹介されている話があまりに後の歴史通りの動きを紹介していることに違和感を覚える。オーストリア軍に追われたジュベールがラ=コロナからリヴォリへ退却したのは1月13日であり、ボナパルトの増援が到着してリヴォリで激しい会戦が行われたのは14日。もし追伸が本当にアルヴィンツィの書いたものなら、彼は一ヶ月も前からボナパルトの動きを見抜き、戦闘が行われる日程と場所を完璧に予想していたことになる。
その後も異様だ。アルヴィンツィが送り出した別働隊としては「追伸」に出てくるプロヴェラ以外にヴェローナに向かったバヤリッチの部隊もいた筈なのだが、そちらについては言及なし。自らの主力部隊やバヤリッチでなくプロヴェラの名を上げて「マントヴァに接近したら支援しろ」と述べているのは、結局プロヴェラの部隊のみがマントヴァ近くにたどり着けたことを知っている後の時代の人間が書き添えたものだからだと考えた方が納得がいく。
要するにこの「追伸」部分は大デュマの創作だと考えた方がいいだろう。大デュマが「追伸」をでっち上げた動機としては、自分の父親の役割を大きく見せるため。ボナパルト将軍のリヴォリでの勝利は、父であるデュマ将軍が得た情報のおかげだったのだ。そう言って自慢するために、存在しなかった「追伸」を勝手に作り上げて付け加えたのだろう。google bookで"13 ou 14 janvier"とRivoliで検索して引っかかるのが大デュマの回想録だけであることも、この「追伸」が彼の本の中以外に存在しないことを示唆している。
小説家らしい豪快な大法螺だが、騙される人もいる。少なくともGallaherは騙されたし、私も一時期はそうだと思い込んでいた。一方、Ramsay Weston Phippsはもう少し慎重。彼は大デュマの追伸部分を「ある記録によると」と紹介する一方で、「よりありそうなのは、その手紙には皇帝からの命令が含まれていた」(Phipps "The Armies of the First French Republic, Volume IV" p124)と述べている。大デュマを歯牙にもかけず「追伸」を完全に無視したのはBoycott-Brown。ヴァイローテルの作り上げた計画をアルヴィンツィが将軍たちに示したのが1月4日(Boycott-Brown "The Road to Rivoli" p491)だという史実を知っていたから、大デュマの戯言にも惑わされなかったのだろう。
小説家の文章は読んで楽しい時間を過ごすためにある。史実を裏付けるべく引用するためのものではない。
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