1800年冬季イタリア・その4

 XII. -- アディジェ渡河
 数日の間に軍は前進した。左翼はカステルヌオヴォに、右翼はレニャーゴとヴェローナの間に進んだ。マントヴァを封鎖するため分遣隊が送り出された。そしてドンブロフスキ師団が包囲しているペシェーラとマントヴァ間のMincioを通じた連絡を遮断するため、2個連隊がガルダ湖畔に配置された。
 France軍は1月1日、つまりミンチオ渡河の6日後にアディジェを渡った。有能な将軍なら翌日には渡っていただろう。この作戦は何の障害もなくブッソリンゴで実施された。この季節、アディジェ下流はほとんど通行不能だった。翌日、敵は城に守備隊を残してヴェローナから撤収した。ロシャンボー師団はアディジェ沿いのロドロンからリヴァ、トルゴリ、そしてモリを経由して行軍した。この移動によりオーストリア軍はラ=コロナ撤収を余儀なくされた。1月6日、彼らはカルディエロ高地から追い払われた。フランス軍はヴィチェンツァに入城し、モンスイの軍団はロヴェレドにあった。11日にフランス軍はフォンタニーナ前面でブレンタ川を渡った。この移動の間に南部監視軍がイタリアに入り、13日にミラノに到着した。別の方面ではマクドナルドがグリゾン方面軍と伴に1月7日にトレントに入り、オーストリア軍をブレンタ渓谷へと追撃した。そして9日、ロヴェレドでイタリア方面軍との連絡を確立した。それに対しオーストリア軍は日々弱体化していた。戦役開始時に彼らの兵力はフランス軍より3分の1下回っていた。加えて彼らはその時以来、多大な損害を蒙っていた。ポッツォロの戦闘で彼らは多くの死傷者を出し、5000から6000人を捕虜として失った。オーストリア軍がマントヴァ、ペシェーラ、ヴェローナ、フェラーラ、そしてポルト=レニャーゴに守備隊を残したことも、彼らの戦力を大いに減らした。これらのあらゆる損失により彼らはフランス軍に対してどのような戦線も維持することができなくなった。一度アディジェを渡られるとオーストリア軍はティロルからの出口を守るためその戦力の一部を派出することを強いられ、これらの兵は戦線に到着しつつあったグリゾン方面軍によって戦闘を続けさせられた。バラギュエイ=ディリエール将軍はボッツェンにいた。ライン方面軍がウィーンの間近に到着したという情報が、今やオーストリア軍を落胆させる他のあらゆる根拠に付け加えられた。要するにこの軍はとても弱くとても失望していたに違いないためカルディエロ高地を維持することができなかったが、抵抗すべきあらゆる地点を奪取する苦労をフランス軍に味わわせた。フランス軍がブレンタ川を渡るや否やベレガルデ将軍は改めて休戦を求めた。
 マルモン将軍とセバスティアニ大佐は司令官から休戦の交渉をするよう命じられた。第一執政の命令は、住民がオーストリア軍のことをよく思っていないヴェネツィアからオーストリア軍を切り離し、彼らがその市に強力な守備隊を残すことを余儀なくされるようにフランス軍がイゾンツォ川に到達するまであらゆるそうした協定の締結を最も積極的に禁じていた。この[オーストリア軍の守備隊がヴェネツィアに残されているという]環境はフランス軍に新たな優位をもたらしたに違いない。しかし何より、第一執政はマントヴァ要塞を奪うまで何も締結してはならないと主張していた。フランス軍の将軍はこの交渉で何の才能も示さなかった。彼は1月16日にトレヴィゾで休戦協定に署名した。
 ブリュヌは自発的にマントヴァ要塞の明け渡し要求を取り下げたが、それは唯一の政治的問題だった。彼はペシェーラ、ポルト=レニャーゴ、フェラーラなどの獲得で満足した。これらの地域の守備隊は戦争捕虜とはならず、彼らは自分たちの砲兵と要塞にある蓄えの半分を持ち出した。フランス軍が権利を持っているペシェーラの船団ですら、彼らは放棄しなかった。
 トレヴィゾの協定はそれを締結した交渉担当者の弱さを疑いなく示している。あらゆる条件はオーストリア側に有利であったことは明らかだ。フランス軍が得た優位の結果、そしてその兵力と気力で勝っていることが理由で、ペシェーラ、フェラーラなどの場所は取得できた。従ってこれらは敗北した敵に全体で5000から6000人の守備隊と砲兵、物資、及び船団を戻したことになる。新たな戦役を支援する際にオーストリア軍を支えられるだけ十分に長く持ちこたえられる唯一の場所はマントヴァだった。そしてこの要塞は敵の手の内に残ったばかりでなく、その周辺800トワーズについてはその守備隊と住人に必要な分以上の食料を自由に受け取ることが許された。
 第一執政はこの戦役で犯した数多くの失敗だけでなく、彼の命令が破られるのを見て、交渉の成功が危険に晒され、イタリアにおける状況が不安定になったことが理由で不満を抱いた。彼はすぐトレヴィゾ協定の批准を拒否することをブリュヌに知らせ、マントヴァを明け渡さない限り戦闘行為を再開すると宣言するよう彼に命じた。第一執政はリュネヴィルのコベンツル伯にも同じ宣言をした。ついに誠実な対応の必要性を納得させられ、彼の主君を脅かす破滅的状況下でその自尊心を挫かれたこの公使は、1月26日にマントヴァをフランス軍に引き渡す命令に署名した。それに応じ2月17日には明け渡しが行われ、そしてこの条件で休戦は継続した。このイタリア戦役はブリュヌの才能の限界を示し、第一執政はこれ以上彼に重要な指揮権を決して与えなかった。この将軍は最も輝かしい勇気と、旅団の先頭における偉大な決断力を示したものの、軍の指揮を執るようには作られていないように見えた。
 にもかかわらずフランス軍はこの戦役で絶えず勝利し、イタリアの全ての要塞は彼らの手に落ちた。彼らはティロルと、ヴェネツィアの本土領の4分の3を占拠した。フランス軍の休戦ラインはサリーから海までリヴェンツァ川の左岸に沿って延び、そこからピアーヴェとツェリーネ間の山岳部の稜線を経てドラーヴェ川に沿ってリンツまで達し、そこでドイツの休戦ラインと合流していた。
Memoirs of the History of France During the Reign of Napoleon, Vol. II"http://books.google.com/books?id=LwYBAAAAYAAJ" p67-87

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