1800年冬季イタリア・その3

 夜明けにモリノ=デラ=ヴォルタに到着したデュポン将軍は橋を架け、彼の師団を渡した。彼はポッツォロ村を確保してそこに右翼を築き、ミンチオに拠った左翼はモリノの対岸に置いて平野全体を見下ろしていた右岸の高地にある砲兵の砲撃によって守られていた。左翼の陣地は堤防によってさらに強化された。渡河時点での敵の数は多くなかった。10時頃、デュポン将軍はモツェンバーノ前で実施を企図していたブリュヌ将軍による渡河が翌日に延期されたことを知った。デュポン将軍はすぐ彼の兵の大半を右岸に再渡河させ、砲兵に守られた橋頭堡を築くため僅かな歩兵大隊のみを左岸に残すべきだった。またその地点は敵が橋に接近できないような場所にするべきだった。この作戦は陽動によるあらゆる利点をもたらし、敵の注意を分散させたであろう。夜明けにはヴァレッジョからサリオンツォの戦線は敵の全軍がそこで合流する前に強行突破されたに違いない。しかしデュポン将軍は左岸の陣にとどまった。ヴァレッジョとサリオンツォの要塞化した宿営地の利点を活用したベレガルデは、予備と伴に[フランス軍]右翼に向かって行軍した。この地点で激しい戦闘が行われた。スーシェ将軍とダヴー将軍はデュポン将軍の救援に急いだ。そして兵たちが偉大な勇気を示した最も血腥い争いがこの地点で行われ、フランス軍8万人がオーストリア軍6万人と対峙していた30平方リーグの中心部にあった戦場には2万から2万5000人のフランス軍と4万から4万5000人のオーストリア軍が参加した。最も激しい戦闘はポッツォロの村で行われた。右岸の砲兵からの砲撃と堤防で守られた左翼は、より攻撃するのが困難だった。オーストリア軍とフランス軍が交互に奪取と再奪取を繰り返したポッツォロは、最終的に後者の手にとどまった。しかしそのコストは高価だった。彼らは3個師団の精華を失い、少なくとも敵と同じくらい酷い損害を蒙った。フランス兵の勇気は誤って使われた。そしてこの勇敢な兵たちの血は司令官の失敗と、その部下将軍たちの軽率な野心が引き起こしたミスを修正することにのみ寄与した。戦場から2リーグ離れた場所に司令部を置いていた司令官は、その右翼が交戦のため左岸に渡ったことを知っていたが、彼らを支援するための配置を行わないまま彼の全右翼が損害を蒙るままにさせた。このような行動に対してコメントすることはない。
 右翼が渡河して敵と戦っているのを知っていたブリュヌが、どうしてその支援に急ごうとせずもう一つの橋を架けるために架橋隊を送るのを怠ったのかを説明するのは不可能だ。彼は2ヶ所で渡河する計画を選んでいたのだから、なぜ少なくともモツェンバーノを選び、オーストリア軍が行った移動を利してサリオンツォとヴァレッジョを奪取し、敵の背後に襲い掛からなかったのか? スーシェとダヴーは事態の必要性のみに鑑みて完全に自発的にデュポンの支援にやって来た。
 25日、マルモン将軍は架橋を守るためモツェンバーノ高地に彼の予備砲兵を配置した。これは完全に無駄だった。高地に見下ろされ、その対岸にどれほど多くの砲兵を配置してもその砲兵陣を15分以上維持できない、たった20トワーズの幅しかない川の渡河に抵抗する目的のため、3000トワーズの長さがある凹角部に自らを配置するほど敵は馬鹿ではなかった。渡河が実施され、前衛部隊のデルマはヴァレッジョへ行軍した。モンスイがブーデ師団と伴に、そしてミショーは予備と伴に彼を支援した。スーシェはボルゲットー前面に予備としてとどまった。そしてデュポンは右翼とともにポッツォロに残った。兵たちはヴァレッジョとサリオンツォからの挟撃を持ちこたえなければならなかったが、オーストリア軍の将軍は渡られた川[ミンチオ]について考慮し、前日受けた攻撃の後で、膨大な数の優位にもかかわらず、アディジェの戦線を確保するよう試みるのが最善だと考えて既に退却の準備をしていた。彼は退却を安全に行うためにサリオンツォとヴァレッジョの陣地に単に守備隊だけを置いておき、負傷者を運び出した。ブリュヌは彼がそれを行うだけの余裕を与えた。25日の間に彼はサリオンツォとヴァレッジョより遠方へは進まなかった。即ち、彼は3000トワーズだけ行軍した。翌日、サリオンツォの堡塁は降伏した。兵1200人といくつかの大砲がそこで捕まった。これらの守備隊がペシェーラへ退却する命令を受け取らなかったのは、オーストリア軍参謀の失敗によるものだと推測すべきである。ともあれ、この将軍の行動を正当化するのは難しい。
 フランス軍はボルゲットー奪取を試みて無駄な攻撃を行った。それを任された勇敢な第72半旅団はその最良の兵たちを失った。活発な砲撃といくつかの曲射砲を投じるだけで十分だっただろう。最初にヴァレッジョを確保しなければボルゲットーに入ることはできないし、一度ヴァレッジョを得られれば、ボルゲットーの中にあるものは全て手に入る。実際、第72半旅団による攻撃の少し後でボルゲットーの守備隊は降伏して捕虜になったのだが、その時にはこの勇敢な半旅団の400から500人の兵たちの命は気まぐれに費やされていた。

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