1800年冬季イタリア・その2

 野戦と同様、攻城戦でも大砲が主要な役割を果たし、全面的な変革をもたらした。石の城壁は、大量の土に守られた接地射撃のため、放棄することが必要になった。宿営地を設置して毎日塹壕を掘り、一列に並んだ僅かで貧相な柵の背後に安全を求めることも、諦める必要があった。
 対岸を見下ろしている場所を確保した時、もしそこがかなりの数の砲門を配置することを許すのに十分なだけ広ければ、川を渡るのに大いなる便宜を得たことになる。にもかかわらず、もし川幅が200から500トワーズあれば、その優位はそれほどではない。なぜなら散弾は対岸まで届かないし、その距離を利して敵はたやすくその兵を一列に並べ、渡河に対抗しようとする兵は自ら塹壕に入り対岸からの砲撃から身を守ることができる。もし擲弾兵が橋の建設を守るために渡河を命じられ、障害を乗り越えるのに成功したとしても、彼らは敵の散弾で粉砕されるだろう。敵は橋の出口から200トワーズの場所に置かれたところから最も破壊的な砲撃を続けることができ、一方で渡河を試みる軍の砲兵隊からは400から500トワーズ離れた場所にいるからだ。かくして大砲に関するあらゆる優位は完全に彼の側にある。そしてこの場合、敵を完全に奇襲することができ、渡河を試みる軍が中州を利用することができるか、あるいは川が深い凹角部を構成しており彼らの砲撃をその狭い部分に交叉するように砲兵陣を構築することができることがなければ、渡河を達成することは不可能である。この中州あるいは屈曲部は自然の橋頭堡を形成しており、攻撃軍に砲兵のあらゆる優位性をもたらす。
 川幅が60トワーズ以下の時、優勢で、そして彼らが確保しようとしている土地に対して大いに見下ろすことができる岸に布陣している砲兵に守られて対岸に派遣された兵たちは、それだけの強みを持っているため、川が屈曲部を形成していなくてもその架橋を妨げることは不可能だ。この場合、最も有能な将軍たちは自らの立場を受け入れ、彼らが敵の計画を予想できた時にはその軍とともに渡河点に到着し、真の隘路である橋を渡るのに対抗するべく、彼らの軍をその周囲に半円状に並べ、対岸の高地の砲撃から300から400トワーズ離れたところに配置する。これはオイゲンがカッサノの橋を利用するのを妨げるためにヴァンドームが実行した機動である。
 Franceの将軍は12月24日にミンチオを渡ることを決断し、渡河を実行するうえで相互に2リーグ離れたモツェンバーノとモリノ=デラ=ヴォルタの地点を選んだ。この2ヶ所においてミンチオは何の障害にもならなかったが、戦闘の全般的計画について熟考しなければならないところがあった。モツェンバーノとモリノの間で戦力を分けたのは賢明だっただろうか? 敵はヴァレッジョの隆起部とボルゲットーの橋頭堡を占拠している。従って、2ヶ所で渡河した後の兵の合流にはいくらかの困難と不確実さが伴っていた筈だ。敵はボルゲットーから出撃してこれらの攻撃の一方を妨げたに違いない。従って絶えず兵たちを確実にまとめておくため1ヶ所で渡河する方が戦争の法則から見ても安心できるものだった。この場合、2つの渡河点のうちどちらがより望ましかっただろうか?
 モツェンバーノはヴェローナに近い利点があった。こちらの地点の方がより良かった。従って軍が相互に200から300トワーズ離れた3つの橋を越えてモツェンバーノを渡っていたならば、その右翼と左翼は絶えずミンチオに拠っており、右岸に配置できた砲兵隊に側面を守られていたため退却に関する不安を抱く余地はなかっただろう。しかしこうした状況を完全に把握していたベレガルデは、ヴァレッジョとサリオンツォの2ヶ所を強力な堡塁と伴に占拠していた。ミンチオの湾曲部に位置していたこの2地点は、渡河点と合わせて両辺3000トワーズの二等辺三角形を形成していた。オーストリア軍はヴァレッジョに左翼、サリオンツォに右翼を拠り、かくしてその弦を占拠し右翼と左翼は完全に支えられていた。その側面を迂回することができなかったが、その戦線は3000トワーズに渡って延びていた。かくしてブリュヌが望むことができるのはその中央を貫くことだけで、そうした作戦はしばしば困難かつ多大な気力と多くの兵の集中を必要とした。
 モリノ=デラ=ヴォルタの渡河点はより不利だった。敗北した場合、退却はより困難になっただろう。というのもポッツォロが右岸を見下ろしていたからだ。しかしこの地点では敵は両翼を要塞化された構築物によって支えられているという利点は得ていなかった。
 モツェンバーノで渡河を実施した場合、フランス軍の将軍は強力な塹壕を掘られたヴァレッジョの高地を右手に、そして左手には同様に強力な構築物で占められたサリオンツォを見ることになる。フランス軍が出てきた時、彼らは凹角部にあって敵砲兵の集中的な砲撃に晒されており、そして正面のオーストリア軍は既に述べた強力な2地点によってその右翼と左翼を支えられていた。同時に、ラ=ヴォルタで渡河した軍団はその右手1リーグ半離れた場所に右岸の要塞化地点であるゴイトがあり、その左手1リーグの距離にはボルゲットーとヴァレッジョがあった。
 にもかかわらず右翼はラ=ヴォルタで渡ることが、そして残りの軍はモツェンバーノで渡河することが決められた。

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