復讐者

 トーマス・グレアムの前にデュマ将軍追加。こちら"http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya1220.html"にトンデモ話が紹介されているのを発見した。有名人のサイトなので遠慮なくツッコミをさせてもらう。

「事態は革命派の優勢に傾いていった。知ってのとおり、フランス革命はブルジョワの気勢によって成就した。しかしトマはそのどさくさのあいだに、義勇軍に参加した。そこに小柄な男がいた。この小柄な男はまことにはしっこくて、たちまち連隊長にのしあがってきた。トマはこの連隊に所属した。連隊長は恐ろしいほどの指導力だった。名前はナポレオン・ボナパルトといった」
 デュマが所属した義勇軍部隊はlegion franche des Americains et du Midi(後に13e Regiment de Chasseurs)であり、その隊長はデュマと同じムラートで剣士で作曲家だったジョゼフ・ブローニュまたの名をシュヴァリエ=ド=サン=ジョルジュ"http://fr.wikipedia.org/wiki/Chevalier_de_Saint-George"だ。もちろんナポレオン・ボナパルトである筈がない。ブオナパルテはこの時期、コルシカで国民衛兵隊に所属していた。ラオンやリールにいたデュマの上司になることは不可能だ。

「こうしてトマは、このあとナポレオンとともに終始、トップ軍事にかかわることになっていった。ナポレオン軍麾下の将軍の一人にすらなった。ところがナポレオンが1799年に「ブリュメール18日のクーデター」をおこした前後のことらしいのだが、トマはナポレオン軍のイタリア遠征(エジプト遠征のあとのこと)の途中で、敵軍につかまって監禁されてしまう」
 デュマがエジプト遠征の後のイタリア遠征途中で敵に捕まったという話は意味不明。というか日本語のwikipedia"http://ja.wikipedia.org/wiki/トマ=アレクサンドル・デュマ"をちょっと見るだけで「エジプト遠征→ナポレオンを批判→フランス帰国途上で遭難→ナポリ王国で監禁」という流れはすぐに分かる筈だ。下調べをせずあやふやな記憶に基づいて文章を書くとどうなるか自ら演じてみせたのか、あるいは大デュマの真似をして大法螺を吹いてみせたのかもしれない。

 トーマス・グレアム(本来はグレームGraeme)は漫画にも記されている通りスコットランド生まれだが、貴族ではなくあくまでcountry gentlemanだったらしい。彼が貴族になったのはナポレオン戦争の末期、1814年だ。wikipediaに載っている肖像画"http://en.wikipedia.org/wiki/Thomas_Graham%2C_Lord_Lynedoch"を見ると、漫画の方がかなり似せて描いているのが分かる。それにしてもなぜ髪の毛と眉毛の色が違うのだろうか。染めてんのか?
 地方の名士として暮らしていた彼が軍務に就いたのは40代前半。これまた漫画にも描かれている通り、フランス兵に妻の棺を強引に暴かれたのが理由だ。それまで彼は革命に同情的だったらしいが、この事件を機に復讐を誓い志願兵として英国軍に加わった。トゥーロンで戦い、その後で故郷に戻って第90連隊第1大隊を編成しその中佐となる。1796年からの戦役では英国の連絡士官としてオーストリア軍司令部に加わった。後にイベリア半島で戦い、バローサの戦いで勝利したので有名である。
 一般的な軍人とはかなり異なる経歴をたどってきたという点でも面白い人物だが、加えて彼は連絡士官として見た戦役について記した本をかなり早い段階から出版していた。1796年のドイツ及びイタリア戦役についてはその翌年1797年に早くもThe History of the Campaign of 1796"http://books.google.com/books?id=01U2AAAAMAAJ"という題名で出版している。さらに1799年戦役まで追加した本を1800年には上梓。その一部はgoogle bookでも見られる"http://books.google.com/books?q=editions:0Eqc8txXY3fZIFPiDX&id=kxw2AAAAMAAJ&hl=ja"し、全部読みたければnafziger collection"http://home.fuse.net/nafziger/"で入手可能だ。
 漫画の中で描かれていたマントヴァからの脱出行も、この本の中にきちんと記されている。もっともその描写は物凄くあっさりしたもの。

「彼は変装して12月29日の夜に街を離れ、フランスの偵察兵による警戒から逃れたうえで1月4日にオーストリア軍司令部に到着した」
The History of the Campaign of 1796, in Germany and Italy"http://books.google.com/books?id=01U2AAAAMAAJ" p313

 たったこれだけですかと言いたくなるくらいシンプルな言及だ。漫画に描かれていたような「小船に乗った脱出」「雨をついて夜間の移動」などは全く触れられていない。本の内容があくまで戦役全体を描くことにあったためだからなのか、それともグレアムの性格のせいなのか。これが大デュマだったら脱出行関連の話がずっと長々とかつ盛り上げて描かれていたことは間違いあるまい。
 とりあえず同時代の史料を他に探すと、まずロバート・クロファードの手紙が見つかる(A Collection of State Papers Relative to the War Against France, London Gazette"http://books.google.com/books?id=Gwqp14DN7agC"のp132)。1796年11月14日付のこの手紙でクロファードはグレアムがヴルムゼルと一緒にマントヴァに閉じ込められていると推測しており、バッサノ戦役後に彼との連絡が途絶えていたことが分かる。
 脱出後のグレアムについて言及しているのはピットの手紙(The Journal and Correspondence of William, Lord Auckland"http://books.google.com/books?id=BUD-XfXcuJQC"のp377)。アルヴィンツィの司令部にたどり着いたグレアムから1月6日付の手紙が届いたと書かれており、グレアム自身が述べている脱出の日程(4日に司令部着)と辻褄は合っている。
 脱出行についてもう少し詳しく記した話は後の時代の文献に現れる。たとえば1820年出版のThe Royal Military Calendar"http://books.google.com/books?id=vg6zfusHsSAC"のp148-149には彼が(なぜか12月24日に)従者を一人連れてマントヴァを囲む湖を小船で乗り越え、夜間は沼地をかき分けて進み、夜明けになれば隠れる場所を探して移動したと記している。彼は英国の軍服を着用しており、雨にまぎれて移動することに成功し最後はカール大公の軍に到達したとなっている。とはいえ出発の日付が違ううえにまだドイツにいた筈のカール大公の下にたどり着くなど変な部分も多く、そのまま信用はできない文章だ。
 1862年に出版されたAnnals of the Wars of the Eighteenth Century"http://books.google.com/books?id=lA5dav_hpkgC"のp81-82にはさらに詳しい話が載っている。それによるとグレアムは元々マントヴァの湖に船を浮かべて鳥を脅かすなどして遊んでいたようで、フランス軍の見張りにもそのことは知られていた。それを利用して彼は小船で遊んだ後でマントヴァには戻らずに姿を隠し、夜闇にまぎれて川を下ってポー河まで行ったそうだ。その後、ヴルムゼルの参謀長でグレアムの友人だったラデツキーが手配した案内人と合流した彼はバッサノのアルヴィンツィ司令部までたどり着いたという。どこまで信用していいのかは不明だが、少なくとも前の話よりは矛盾は少ない。
 グレアムの脱出行は前にも紹介したハルデンベルクの本にも載っている。Memoires tires des papiers d'un homme d'Etat, Tome Quatrieme"http://books.google.com/books?id=PVW75raK7FMC"のp153-154にある話はほとんどグレアムが書いた本の丸写しだが、グレアムが到着した場所がバッサノであることが書かれている点は違う。それを参照しているArchibald Alisonはグレアムが脱出した際に「雪が激しく降っていた」(History of Europe from the Commencement of the French Revolution to the Restoration of the Bourbons, Vol. IV"http://books.google.com/books?id=6SgLAAAAYAAJ" p119)と記しているが、論拠は分からない。
 しかしおそらく最も面白いのは1805年出版のSpirit of the Public Journals"http://books.google.com/books?id=KbsRAAAAYAAJ"に載っている話だろう。ナポリの大臣が書いた手紙をフランス軍が入手したという由来の文章だが、そこの中にオーストリアのマック将軍(1798年からナポリ軍で働いていた)がカント=ディルラスから聞いたという逸話が出てくる。カント=ディルラスは当時マントヴァにおり、グレアムの友人だったが、グレアムが唐突にマントヴァを出立したことについて「何か誤解をしていなければいいが」と気にかけていたらしい。
 なぜそんなことを気にしていたのかというと、グレアムがマントヴァ脱出の策を練ったのは彼にネズミのローストが提供された晩だったため。カント=ディルラスはこの食事がグレアムの感情を損ねたのではないかと思ったそうだ。実はこの食事、英国にはネズミを好む人が多いと聞いたヴルムゼルが特別なご馳走としてグレアムに提供したものだ、とマック将軍は説明している。どこまで本気なのか分からないが、事実としてそんな食事が提供されたのだとしたらこれまた面白い話である。

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コメント

No title

シェヘラザード
そこのサイトは某掲示板で紹介されていたので、さっと見てみたのですが、全然気づきませんでした。いつもながらさすがですね。ライターたるもの、すでに知っている十の中からニか三を書けば奥行きのあるコラムが書けるのでしょうが、実際にはニか三しか知らないことに付け焼刃して十を書くのでそういうことになってしまうのだと思います。デルダフィールドをそろそろ出版社に送ろうと思うのですが、「後書き」でR/Dさんのサイトを紹介させてもらってもいいでしょうか。デルダフィールドはとても資料にはならないので、「ナポレオン戦争はよくわかっていないことが多すぎだけど、ネットには革命戦争とナポレオン戦争をとりあげたこういうサイトもあります」という文脈で紹介したいのです。もっとも、この本を買ってくださりそうな読者さんは、こちらのサイトには日参されているとは思うのですが。

No title

desaixjp
売れっ子になるにつれアウトプットを増やさなければならなくなり、一方でインプットしている時間はなくなる。そんな理由があるのかもしれません。でもせめて日本語wikipediaくらいは読んでもいいのではないかと思いますが。あと、後書きの件はOKです。
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