文豪の父

 ナポレオン漫画最新号。今月の予想通り――デュマ将軍の登場。今月の予想外――トーマス・グレアムの登場。今月の(別の意味で)予想外――ジュノーの蘇生シーン。ではいつものように史実との比較を。

 アレクサンドル・デュマの親父の名前について漫画では「トマ=アレクサンドル・デュマ」として紹介されている。そう紹介されている事例は他にもあり、たとえば英語のwikipediaがそうだ"http://en.wikipedia.org/wiki/Thomas-Alexandre_Dumas"。しかしこれがフランス語になるとただの「アレクサンドル・デュマ(将軍)」"http://fr.wikipedia.org/wiki/Alexandre_Dumas_%28g%C3%A9n%C3%A9ral%29"となり、トマ(Thomas)の文字が抜けてしまう。果たしてどちらが正しいのだろうか。
 彼の若いころの名前はトマ=アレクサンドル・ダヴィ=ド=ラ=パイユトリだった、という点では英語wikiもフランス語wikiも一致している。彼の父親であったフランス人貴族はラ=パイユトリ侯爵アレクサンドル=アントワーヌ・ダヴィという名前であり、若い頃はそこからダヴィ=ド=ラ=パイユトリという姓を使っていたのだろう。母親は黒人奴隷であり、デュマ(du mas)という姓は単に農家という意味だ。
 ムラートであった彼が軍に一兵卒で入る時、彼は父親の要請に応じて父方の姓を捨て母親の姓を使うようになったという。その話を伝えているのは彼の息子である大デュマ(三銃士、巌窟王の作者)。Mes memoires, Premiere Serie"http://books.google.com/books?id=Tp8DAAAAYAAJ"のp22には「我が父はかくして[祖父との]合意に基づき、アレクサンドル・デュマの名で入隊した。1786年6月2日、429番目の兵として第6王妃竜騎兵連隊に入った」とある。
 大デュマの証言が正しいのなら、軍に入った後の彼の名はトマが付かないただの「アレクサンドル・デュマ」だと考えていいだろう。問題は大デュマが小説家であること。フィクション作家は話を面白くするためならいくらでも事実に反することを書いていいし、実際に書くのが仕事である。従ってここは他の証言を探しておいた方がいい。
 さっそくgoogle bookで検索をかけてみた。まず"general alexandre dumas"を調べてみたところ、全くの同時代ではないが少し後の時代に出版された本の中にそうした記述が沢山出てきた。たとえば1819年出版のHistoire de France, Tome Sixieme"http://books.google.com/books?id=mQeSy3-wq3QC"のp478-479には「アレクサンドル・デュマ将軍麾下のアルプス方面軍」という表現が出てくる。
 1821年出版のDictionnaire historique et biographique des generaux francais, Tome Second"http://books.google.com/books?id=OoVQVthpub8C"のp103や、1827年出版のBiographie nouvelle des contemporains"http://books.google.com/books?id=t_kMAAAAYAAJ"のp162、1832年出版のLa trente-deuxieme demi-brigade"http://books.google.com/books?id=KeEPAAAAYAAJ"のp107にもアレクサンドル・デュマ将軍という表現が出てくる。彼の息子である大デュマが有名になったのは1820年代末期以降。息子の七光り以前から「アレクサンドル・デュマ将軍」という言い方が一般的であったことが分かる。
 ならば彼の軍隊時代の名前は「アレクサンドル・デュマ」で決まりかというとそう簡単にはいかない。実は一つだけ「トマ=アレクサンドル・デュマ」と記した史料がgoogle bookで見つかるのだ。それもデュマが生きていた同時代、1793年に出版された本に書いているのだ。Gazette des nouveaux tribunaux"http://books.google.com/books?id=vGG4Rfub0lMC"のp437がその証拠である。
 この記事はおそらくデュムリエの造反に際して行われた裁判関連の史料だろう。当時のデュマは中佐Lieutenant-colonelで、第13猟兵連隊に所属していた。同連隊は訓練不足だったためリールで訓練を続けていたのだが、そこにデュムリエの指揮権を解くためにパリから陸軍大臣らがやって来た。彼らはデュムリエの司令部まで行くに際して第13猟兵連隊に護衛を求め、デュマも一緒についていくことになった。だが護衛部隊は馬の疲労のためオルシーで停止。大臣らは馬を換えて先に進み、デュマはオルシーに残った。
 デュムリエの司令部に到着した陸軍大臣は逆にデュムリエに逮捕され、連合軍に引き渡される。デュムリエはオルシーの指揮官だったミアチンスキーに協力を求める使者を送った。ミアチンスキーと一緒にいたデュマはこの協力要請を断り、リールに戻ってデュムリエの造反を告げたという(Gallaher "General Alexandre Dumas" p24)。デュムリエの造反に関する裁判でデュマの名前が出てくるのは、不思議でも何でもない。つまり、中佐当時の彼はトマ=アレクサンドル・デュマと呼ばれていた可能性が高いのだ。
 要するに彼の名は「トマ=アレクサンドル・デュマ」と「アレクサンドル・デュマ」のどちらでもあった可能性がある。前者は同時代の裁判記録にあったという点で重要だが、それ以外の本に見当たらないのが問題。後者は様々な文献に取り上げられているが、彼が生きていた時代のものがない点が弱い。どちらの呼び名が正しいと判断を下すのは、現時点では難しそうである。

 デュマ将軍がボナパルト麾下のイタリア方面軍に配属されマントヴァに到着したのは1796年12月18日。アルコレの戦いが終わった後である。デュマの登場が予想できたのは、こうした史実があるからだ。そして到着間もない時期に彼は大きな手柄を立てる。漫画の中ではサラっと流されているが、スパイを発見して密書を手に入れたのはデュマの功績だ。
 デュマが1796年12月25日にボナパルト宛に送った手紙がCorrespondance inedite officielle et confidentielle de Napoleon"http://books.google.com/books?id=y1wuAAAAMAAJ"のp376-378に載っている。スパイからどうやって密書を見つけたかを記したうえでヴルムゼルがポー河を渡るのに対抗するために必要な措置を取ると書いており、大陸軍戦報にも指摘されているようにいざとなった際は南方への突破を図るよう密書でヴルムゼルに命じていた可能性が高い。またこのデュマの手紙には、包囲中のマントヴァ周辺の建物に民間人が普通に住んでいたことも記されているなど、なかなか興味深い点がある。
 ボナパルトが1796年12月28日付で総裁政府に送った手紙にもこの密書発見の話がはっきり記されている。Correspondance de Napoleon Ier, Tome Deuxieme"http://books.google.com/books?id=K1cuAAAAMAAJ"のp202-204にあるその手紙には「今月[ニヴォーズ]2日、デュマ将軍は街へ入ろうとしたスパイを密かに捕らえました。スパイはオーストリア軍の若者で、アルヴィンツィによりトレントから送り出されたものです」と記されている。
 ボナパルトの手紙によるとスパイが胃の中に隠していたのは神聖ローマ皇帝からの手紙で、マントヴァの守備隊が追い詰められていること、それでもまだしばらく抵抗を続けられるであろうこと、オーストリア軍が新たな増援を得ていることなどが記されていたという。さらにオーストリア軍が1月に改めて戦闘を再開するため準備していることも判明したようだ。ボナパルトは皇帝の手紙の写しも総裁政府に送っているようだが、詳しい内容までは分からない。
 Martin Boycott-Brownはスパイが運ぼうとした密書にアルヴィンツィからのコメントが記されており、そこには「その時点での状況と軍にとっての必要性のため、3週間から1ヶ月しないと新たな作戦は試みられない」と記されていたという(Boycott-Brown "The Road to Rivoli" 489)。Boycott-Brownが論拠にしているのはSchelsの"Die Begebenheiten in und um Mantua vom 16 September 1796 bis 4 Februar 1797"なる書物らしいが、残念ながらネットでは見つからない。ただ、Schelsが他にもオーストリアの軍事史関連の本を書いていることは分かる。
 一方、Gallaherはこの密書の内容について大デュマの回想録から引用している。それによるとアルヴィンツィは追伸の部分で「おそらく私の移動は1月13日か14日になるまで始まらない」と書いていたのだとか(Gallaher "General Alexandre Dumas" p77)。Boycott-Brownの紹介している文章に比べれば随分と具体的だ。Schelsの本と大デュマの回想録のどちらがより史実に近いのかを判断するのは難しいが、Schelsがオーストリア側の記録を使って記したであろうこと、ボナパルトの総裁政府への手紙で攻撃開始の時期について大雑把に「1月」とだけ書かれていたことを考えるのなら、Schelsの指摘した「3週間から1ヶ月後」に作戦を始めるという文章だった可能性の方が高そうだ。

 長くなったのでグレアムの話などは次回に。

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コメント

No title

cwehs
凄いですね。ユックリと似せて頂きます。私のも見て下さい。

No title

desaixjp
見ました。トゥサン=ルヴェルテュールについてはまさにナポレオン時代ですので、前に少し本を読んでみたこともあります。ナポレオン自身も彼についてセント=ヘレナで言及していました。興味深い人物の一人だと思っています。
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