言葉の主

 親衛隊は死すとも降伏せず La garde meurt, et ne se rend pas.

 この言葉はカンブロンヌに結びつけて紹介されていることが多い。もちろん別の言葉(Merde)を充てている例もあり、実際にはその2種類の双方がカンブロンヌに結び付けられているのが一般的だ。ユゴーなどによれば後者こそが正解となる。つまり、カンブロンヌはla garde meurt...とは話さなかった。ではここで質問。カンブロンヌでないとしたら、一体誰がla garde meurtと言ったのか。

 答えはクロード=エティエンヌ・ミシェル将軍"http://fr.wikipedia.org/wiki/Claude-%C3%89tienne_Michel"らしい。William LeekeのThe history of Lord Seaton's regiment"http://books.google.com/books?id=o2oBAAAAQAAJ"にある脚注(p60)によれば、ミシェルの2人の息子が1845年、フランス国王に対してこの言葉は自分たちの親父が残したものだと訴えたようだ。目撃者も大勢いたそうで、その中には会戦の最終局面で皇帝が逃げ込んだ方陣を指揮していた人物もいたとか。
 ただ、フランスの本を読むとミシェルの息子らが訴えるより前に、既にこの言葉はミシェル将軍のものだという主張はあったようだ。1824年出版のBiographie nouvelle des Contemporains"http://books.google.com/books?id=Y2ogTwleX_EC"のp547に「このレオニダスなどにも比すべき言葉はワーテルローで戦死した勇敢なミシェル将軍のものだと信じる理由がある」と書かれているのがその根拠。
 ちなみに1818年出版のEphemerides militaires"http://books.google.com/books?id=PjwuAAAAMAAJ"のp167はこの言葉をカンブロンヌのものとして紹介している。おそらくこの言葉がカンブロンヌに帰せられたのをみた関係者が何らかの形で反論し、それが少し後の時代の本に反映されるようになったのだろう。でも、この「ミシェルこそがこの言葉を言った」という話はできの良くないミームだったようで、その後の時代においてミシェル将軍と件の台詞がきちんと結び付けられて紹介されるケースはほとんどない。なぜこんなにミシェル将軍が無視されてしまうのか、理由は分からない。
 ミシェルは1772年生まれ。1791年に志願兵大隊に入り、アウステルリッツ、イエナ、アイラウ、フリートラント、ヴァグラムなどで戦う。1811年准将、13年には将軍。ワーテルローの前、1815年4月には親衛隊第1猟歩兵連隊の副指揮官となった。

 ワーテルローの戦いで、彼は捕虜になることなく戦死した。

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