元帥最後の戦い

 ナポレオンの元帥たちは皆、砲火を浴びた経験がある。君主自身が戦場から成り上がっただけあって、彼らの中に宮廷内の力関係だけで元帥の地位にたどり着いた者はいない。何をやったかほとんどの人が知らないペリニョンだって、その頭部には戦場で受けたサーベルの傷跡がはっきりと残っていた。
 全員が実戦経験の持ち主ということは、彼らはいずれも人生のどこかの段階で「最後の戦い」を経験している筈だ。ではそのうち「最後の戦い」が最も早かったのと遅かったのは、それぞれ誰だろうか。
 それを調べる前に「最後の戦い」を定義しておこう。まず王政復古後の戦闘経験は対象外。帝国元帥として、あるいはそれ以前の共和政下での戦闘経験を対象とする。つまり遅くとも1815年までに行われた戦闘を調べる。もちろんここで言う戦闘とは元帥としての戦闘、つまりフランス軍を指揮して行った戦闘行為のみを指す。ミュラの行ったイタリアへの上陸のような個人的冒険は埒外だ。
 問題は「戦い」を実際に戦火を交えたものに限るか、それとも戦闘状態の継続と見なすかである。前者の方がもっともらしいのだが、ナポレオン時代に行われた全ての戦闘行為が記録されている訳ではないだけに正確に調べるのが困難。それに対し休戦協定などで戦闘状態が停止された時点をもって戦いの終了と見なすやり方なら日付をきちんと確定しやすい。ただ、休戦は結んでいないが実際上は戦闘が行われていないケースもある。仕方ないので、両方のケースを想定して考えることにする。

 最も古い時期に「最後の戦い」を経験したのはケレルマンと考えていいだろう。問題はそれがいつなのかだ。ケレルマンが前線勤務は1797年9月13日にアルプス方面軍が解散した時点で終了したとされているのだが、実際にはそれより前の時点でアルプス方面軍は最前線部隊ではなくなっていた。むしろボナパルトの進軍でピエモンテとフランスが休戦を結んだ1796年4月28日の方が戦闘状態終了の日付として適当かもしれない。
 ケレルマンの部隊が実際に敵と砲火を交えた時期となると、これはもっと分からない。少なくともケレルマンがイタリア方面軍を指揮していた1795年7月15日に連合軍との間でドンパチがあったのは間違いないのだが(Martin Boycott-Brown "The Road to Rivoli" p102)、それ以降からピエモンテの休戦までの間にどの程度の戦闘があったのかは不明。ケレルマン「最後の戦い」は1795年7月から96年4月頃までの間のいずれかの時期にあったと考えるしかないだろう。
 ちなみに彼はその後、1799年にバタヴィア方面軍の臨時指揮官になっているが、既にオランダにいた英露連合軍との間で休戦が成立した後なので「戦い」とは見なせない。それ以外に予備軍団とか監視軍と名のついた部隊の指揮官に何度も就任しているが、いずれも補充兵を組織して前線部隊に送り出すのが主な仕事。彼の最後の戦いは、やはり遅くても1796年と考えていいだろう。
 ケレルマンの次に古いのはセリュリエで、こちらは日付もきちんと確定できる。1799年4月28日だ。この日、彼の指揮する師団はイタリアのヴェルデリオで露墺連合軍に降伏した。包囲され、退路を断たれた状態での決断であり、避けられない事態だっただろう。そしてセリュリエはこれ以降、最前線で戦うことはなかったのだ。最後の戦いは彼にとっては屈辱的なものだった。

 では最も新しい時期に、つまり一番最後に「最後の戦い」を行った元帥は誰だろうか。候補者は3人。ダヴー、スーシェ、ブリュヌである。いずれも1815年にナポレオンの下で戦った元帥たちだ。ちなみにワーテルロー戦役に参加したスールト、ネイ、グルーシーの3人は彼らより先に辞任したり権限を停止されている。
 ダヴーの最後の戦いについてはシェヘラザードさんのこちら"http://blog.livedoor.jp/sheherazade/archives/51074953.html"に載っている通り。イシーの戦いは7月3日の早朝に行われ、その後は停戦交渉の進展を受けて戦闘行為は停止された。実際にパリ明け渡しが合意されたのは翌4日。ただ、もしかしたらこの時決まったのはパリ明け渡しだけかもしれない。その場合、戦闘状態の正式な終了はダヴー率いるフランス軍残党(ロワール軍)が国王への恭順の意を示した7月14日とした方がいいかもしれない。
 英語版wikipedia"http://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Waterloo"ではこのイシーの戦いをナポレオン戦争における最後の戦闘としているが、おそらくそれは違う。Digby Smithによれば同年9月になってもいくつかの要塞では立てこもるフランス軍と攻める連合軍の間で包囲戦が行われていたし、ロンウィでは9月13-14日の夜にプロイセン軍が強襲をかけている。要塞を巡る戦い以外にも戦闘は続いていた。その一つがスーシェ率いるアルプス方面軍と連合軍との戦闘だ。
 フランス国内に侵入してきた連合軍に対し、スーシェはリヨンを守るべく防衛線を敷いた。こちらの本"http://books.google.com/books?id=aF8IAAAAQAAJ"のp422によれば7月11日にリヨン近くのマーコンで激しい戦闘が行われたとある(Digby Smithは10日としている)。明らかにイシーの戦いより後だ。その後スーシェは12日に連合軍との間でリヨン明け渡しに合意、20日には国王に対して恭順の意を表した("http://books.google.com/books?id=u6gyqegCYvwC" p313)。国王に従った時期もダヴーより後になる。
 ならばスーシェが帝国元帥として最後の戦いを行った人物なのだろうか。麾下の部隊が実際にドンパチした事例としてはおそらくそうだろう。ただ、(多分)砲火を交えていないものの戦闘状態にあった人物を調べるなら、さらに遅くまで時期を延ばすことができる。ブリュヌの「最後の戦い」だ。
 彼は1815年にヴァール監視軍の指揮官となった。名前は監視軍だが、この軍はニースのピエモンテ軍と実際に対峙していたため、ブリュヌが前線勤務をしていたと考えて問題はないだろう。そこに英国艦隊が現れ、同年7月14日にはマルセイユに上陸した。ブリュヌはピエモンテ軍と休戦を結び、英国軍及びフランス南部の王党派と対峙すべくトゥーロンへ向かったという。
 トゥーロンに拠点を置いたブリュヌの軍と、マルセイユに拠る王党派及び英国軍は、互いに部隊を展開して戦闘できる状態を維持していた("http://books.google.com/books?id=72QIAAAAQAAJ" 567-568)。一方でブリュヌは王党派側のリヴィエール侯爵と交渉も続けており、大っぴらに砲火が交わされた様子はない。とはいえ「英国軍が退却しトゥーロンには攻撃しない」というブリュヌの要請はすぐに断られたそうなので、公式には戦闘状態を維持していたと見ることができそうだ。
 最終的にブリュヌがトゥーロンにブルボン家の白色旗を掲げて国王に恭順の意を示したのは7月24日("http://books.google.com/books?id=7voRAAAAYAAJ" p353)。ダヴーより10日、スーシェより4日後のことである。この時点でブリュヌにとっての、そしてナポレオン1世が率いた帝国元帥たちにとっての「最後の戦い」が終了した。

スポンサーサイト



コメント

非公開コメント

トラックバック