砕かれた剣

 アルコレ続き。今号の大陸軍戦報にはちょっとした挿話が紹介されている。アルコレの戦いの最終日、1796年11月17日の出来事だ。フランス軍の攻撃を支えきれずに退却を決断したアルヴィンツィに対し「オーストリアのある士官は剣を折って怒りを露にし、『二度と腰抜けの下で戦わぬ』と誓ったという」。今回はこの話の淵源を探ってみよう。
 戦報の著者が具体的にどの本を論拠にしたのかまでは分からないが、遡ればこの話がArchibald AlisonのHistory of Europe during the French Revolution, Vol. III."http://books.google.com/books?id=sWYIAAAAQAAJ"にまでたどり着くのはおそらく間違いないだろう。1833年から42年にかけて出版されたこの本で、Alisonはアルヴィンツィが17日にアルコレから退却したことに触れた後で、以下のように述べている。

「この最後の退却がフランス軍の指揮官との秘密の合意によるものであることは全オーストリア軍にとって自明であり、それに伴う交渉が視野に入ったことについて彼らは公然と騒々しくその憤りを表明した。ある大佐はその剣を粉々に砕き、兵たちに恥辱をもたらす行為をするような指揮官の下ではこれ以上戦わないと宣言した。アルヴィンツィがアルコレでのこの恐ろしい闘争の際に、能力も、ナポレオンと戦うに相応しい将軍としての精神力も示さなかったのは確かだ。――彼が実際にそうしたものに欠けていたのではなく、最高軍事会議にはめられた破滅的な足枷が彼のあらゆる行動を麻痺させ、交渉を前にして様々なものを危険に晒す恐れが彼からあらゆる成功の機会を奪っていた」
History of Europe during the French Revolution, Vol. III. p96-97

 オーストリアの士官の階級が具体的に「大佐」と示されていること、彼の台詞が「腰抜けの下で戦わぬ」ではなく「兵たちに恥辱をもたらす行為をするような指揮官の下では」戦わないと言っている部分など、微妙な違いはある。だが、彼がアルヴィンツィの退却に怒って剣を折ったのは同じ。Alisonはこの段落の最後に脚注で論拠となる文献も示しており、一見して実際にこういうことがあったように見える。
 だが、実は違う。Alisonが書いている話には大きな欺瞞がある。
 それはAlison自身がまさに示している脚注を見れば分かる。彼の脚注には「Hard. iv. 71, 77.」と書かれている。これはプロイセンの政治家Karl August von Hardenberg"http://en.wikipedia.org/wiki/Karl_August_von_Hardenberg"の記したMemoires tires des papiers d'un homme d'Etatの第4巻"http://books.google.com/books?id=PVW75raK7FMC"の71ページと77ページを参照しろということ。実際にこれらの頁にはアルヴィンツィの不作為や交渉に関する話などが載っている。だが、剣を折った話は見当たらない。
 実はオーストリアの士官が剣を折る場面は同書75ページにある。そしてそれを読めば、Alisonの書いている話と決定的に違う部分があることが分かる。

「11月20日、ヴィチェンツァに退却していたアルヴィンツィは、ボナパルトが勝利を収めているダヴィドヴィッチとの対峙に向かったことを知った。(中略)アルヴィンツィは再前進を命じ、皆が喜んだ。だが驚いたことにこの命令は取り消され、悲しむべきことに縦隊は再びヴィチェンツァへの道を取ることを余儀なくされた。
 これも秘密交渉の影響だった。フランス側の使節がヴァイローテルと合流し、そして彼の連絡を受けたアルヴィンツィはブレンタ川の背後に後退することを決定してしまった。軍の不満は頂点に達した。ある大佐は怒りと伴に剣を取ってそれをいくつかの破片に砕き、司令官によって名誉を汚された軍でこれ以上戦いたくないと抗議した。他の士官たちも同じ感情を爆発させた」
Memoires tires des papiers d'un homme d'Etat, Tome Quatrieme, p75-76

 大佐が剣を折ったのは11月20日だ。Alisonが書いているような11月17日ではない。この挿話が起きたのはアルコレの戦いの最終日ではなく、それから3日後の話だったのである。一度は退却したオーストリア軍が再度前進すると聞いて意気込んでいた士官が、その前進がキャンセルされたことに激怒してこうした行動を取った、とハルデンベルクは書いている。
 なぜAlisonはこの挿話の日付をずらしたのか。単なる勘違いだろうか。いや、それはあり得ない。なぜならAlisonは上に紹介した文章を記した後に、11月18日時点でのダヴィドヴィッチの作戦行動を紹介したうえで以下のように書いているからだ。

「ナポレオンがダヴィドヴィッチを追って留守にしている時に、アルヴィンツィはいまや主に病人と負傷者が残されているヴェローナへ向かって前進した。その方向への行軍が命じられた時、軍には幅広く喜びが拡大した。だが、かつての優柔不断はすぐに戻ってきた。最高軍事会議の命令は彼のよりよい才能を圧倒し、ヴィチェンツァへの退却を命じる最終命令が再び彼の英雄的な部下の間に悲嘆と絶望を広げた」
History of Europe during the French Revolution, Vol. III. p97

 Alisonはいったん退却したアルヴィンツィが再び前進を試み、それをすぐ取り消したことを知っていたのだ。しかもここで紹介した文章についている脚注は「Hard. iv. 75.」、ずばり剣を折った話が紹介されているページである。Alisonがこの挿話に目を通していなかったとか、自著を書く際に勘違いしたという事態は、極めて考えにくい。
 なぜAlisonは本当は20日にあった話を17日にずらしたのだろうか。話を盛り上げるためだとしか考えられない。アルコレの戦い最終日に起きた挿話であれば、この話は結構ドラマチックである。しかしそれから3日後の話だとすると読者にとって印象は薄い。読み手に印象付けるため、彼はハルデンベルクの本から不誠実な引用をしたのだ。
 この程度の変更ならそんなに大した話ではない、と思う人もいるかもしれない。確かにこの挿話自体には何の重要性もない。だが、Alisonがソースを引用する際に恣意的な変更を加える人物であることが分かってしまったのは極めて問題である。この話を知った後で、なおAlisonが書いている文章を信じられるだろうか? またどこかで適当に変更を加えたり話を捻じ曲げたりしているのではという疑問が思い浮かぶのを避けられるか? 私には無理だ。
 ワーテルローでネイが増援を求めたタイミングに関してHenry Houssayeがソースを捻じ曲げていたのではないかとの疑問をこちら"http://www.asahi-net.or.jp/~uq9h-mzgc/g_armee/heymes.html"で指摘したことがある。ただ、Houssayeの場合は単純に捻じ曲げたのではなく、Shaw Kennedyの記した別の一次史料と辻褄を合わせるために変更を加えている。要するに他の論拠があってやったことだ。それに対してAlisonは他の論拠を示していない。脚注にはハルデンベルクの本しかない。悪質さでは比べ物にならないほど酷い話である。

 さて、それではハルデンベルクはこの話をどちらから持ってきたのだろうか。彼はプロイセンの政治家であり、オーストリアとフランスが戦ったアルコレの戦場にいた筈はない。どこかの史料からこの話を引っ張ってきたのだろう。そしておそらくその史料とは、前にも紹介したRecit Historique de la Campagne de Buonaparte en Italieだと思われる。
 この本の原文はネット上でも見つからないが、その書評という形で本の内容が英語で紹介されているものなら見られる。たとえばこちら"http://books.google.co.jp/books?id=cPM0AAAAMAAJ"には以下のように書かれている。

「この日[17日]の夕刻、アルヴィンツィは後退を命じたが、軍内でそれに対する不満が激してきたため、19日に彼はアルコレに再度布陣した。しかし20日には再びそこを立ち退き、簡単に奪うことができたであろうヴェローナへ押し出す代わりにヴィチェンツァへ下がった。
 著者は続ける。『しかし、全軍にとって驚きであり多くが激怒したのは、道の真ん中にたどり着いた時に出会った乗馬したアルヴィンツィ将軍が、我々にヴィチェンツァへの後退を命じたことだった。そして私はあるオーストリア軍大佐が怒りで半狂乱になり、彼の剣を3つの破片に砕き、司令官が恥辱にまみれている軍ではもう戦わないと宣言したのを見た。他の数人もあからさまに同じ感情を表した』p188」
Select Reviews of Literature, and Spirit of Foreign Magazines, p111

 前半の段落は書評子が紹介する粗筋、後半はRecit Historiqueから直接引用した文章だ。剣を折る話が20日に起きたことが分かる。Recit Historiqueの著者はおそらく亡命貴族で、アルコレではオーストリア軍と同行していたそうなので、この本は一次史料と見なしていいだろう。おそらくこれが大元のソースである。
 問題は、オーストリア軍の再前進と最終的な後退が11月20日ではなかったらしいこと。Martin Boycott-BrownのThe Road to Rivoliではアルヴィンツィの再前進開始は20日で、21日にはカルディエロまで到着したが23日夜には後退したと記されている。Ramsay Weston PhippsのThe Armies of the First French Republic, Volume IVにもやはり20日に再前進開始、23日から本格的な退却と記されている。このあたりは他の一次史料も調べないとどれが正解なのかは分からないだろう。

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