こんなあり得なさそうな組み合わせがかつてあったのだから歴史は面白い。舞台はポーランド。ロシアに後押しされた国王スタニスワフ2世に対して反旗を翻したバール連盟による戦争において、彼らは衝突した。
グレアムの回想録によればスヴォーロフは1768年に准将になり、その後でポーランドに送られたという。Christopher Duffyの"Eagles over the Alps"によれば彼が准将になったのは1769年5月26日となっているが、ポーランドでバール連盟と戦ったことについてはグレアムと一致。1771年9月23日のストウォヴィチェの戦いでの勝利や、クラクフ包囲などの功績をあげたという。
一方のデュムリエは1770年にポーランドへ送り込まれた。ロシアの影響力を削減したいフランス政府の意向により、バール連盟の兵力を整備するのが彼の任務だった。この時期のデュムリエは欧州各地でスパイに近いことをしており、このときの任務も一種の工作活動だったと言えるだろう。彼はおそらく1771年ごろまではポーランドで活動した。
では、この両者は具体的に戦場で相対したことがあったのだろうか。詳しいことは分からないが、手元にある本などを見る限りではデュムリエの指揮する部隊がスヴォーロフの率いる部隊とぶつかった、という展開はなかったようだ。そもそもデュムリエの仕事は連盟軍の動員、整備であり、部隊の指揮にはなかったのかもしれない。
だが、それでも両者の接点はあったようだ。J. Holland RoseとA. M. Broadleyの"Dumouriez & the Defence of England against Napoleon"によると、デュムリエが要塞化した拠点をスヴォーロフの部隊が攻撃し、そこでデュムリエの兵たちが成功を収めたという。ただ、具体的な場所と日付は記されていないため、どんな戦いだったのかは分からない。
1771年になるとデュムリエとバール連盟の指揮官たちの間に対立関係が生じてきた。それでも同年4月にはバール連盟が優勢に立ち「クラクフ前面での成功」や「4月29日の勝利」によってロシア軍は窮地に追い詰められた、のだそうだ。ポーランドのwikipedia"http://pl.wikipedia.org/wiki/Konfederacja_barska"を見るとSzrenskという地名があるので、このあたりのことを指しているのかもしれない。
しかしながらバール連盟の攻勢は続かなかった。やがてスヴォーロフの部隊は反撃に転じ、いくつもの勝利を収めたことは上に記したとおりだ。結果的にバール連盟は敗北し、ポーランドは第一次分割の対象となった。
バール連盟敗北の要因については色々な意見がある。こちら"http://en.wikipedia.org/wiki/Confederation_of_Bar"では「軍人としても政治家としてもデュムリエは名を上げることができなかった」と記し、ここ"http://www.furugosho.com/precurseurs/mably/pologne.htm"でもデュムリエはランツコロナで敗北したとしている(ポーランドのwikipediaとは日付が違っているが)。
それに対しRoseとBroadleyはデュムリエの下にいたポーランド人指揮官たちの失敗と彼らの強情さが大きな要因だとしている。正直どちらの言い分が正しいのかは分からないが、おそらく前者はポーランド側の、後者はデュムリエの主張を根拠にしているのであろう。なおロシア側に言わせれば「スヴォーロフが素早い移動により多くの勝利を得た」ということになる"http://www.100megsfree4.com/rusgeneral/suvorov.htm"。
とりあえず結果だけ見ればバール連盟は敗北しており、デュムリエもその任務を果たせなかったことになる。一方、スヴォーロフはこの戦役の最中に少将に出世し、その後も順調に出世街道を走り続けた。だが、両者が軍の指揮官になったのはほぼ同じころ。フランス革命戦争だけに限れば、先に舞台にのぼったのはデュムリエの方だった。
とはいえ、どちらも歴史的に言えば知名度は低い。理由は簡単で、いずれもナポレオンとの接点がないことが理由だ。ましてポーランドにおける彼らの戦闘など、一般にはほとんど知られていないだろう。はっきり言って私もよく知らないし。
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