内側か外側か

 ナポレオン漫画は無事にアルコレの戦いが終了。今回は随分とオージュローが目立っていた。まあ第一次イタリア遠征が終わってしまうと、後オージュローが目立てるのはアイラウくらいになってしまうので、今のうちに使い倒しておくのはいい手だろう。という訳でいつものように史実との比較を。

 まず冒頭で沼地からボナパルトが逃げ出すシーンがあったが、そもそもボナパルトはどこの沼に嵌ったのだろう。漫画ではアルポン川にかかるアルコレ橋から落ちた場所で物陰に隠れたりしており、彼が嵌った沼地もアルポン川沿いのものだと推測できる。これはナポレオンのセント=ヘレナでの発言に準拠しているのだろう。

「彼が指揮する縦隊が橋の中ほどまで達した時、側面からの砲火と敵の師団の到着が攻撃を挫いた。後続部隊から見捨てられたのに気づいた縦隊先頭の擲弾兵たちは躊躇ったが、逃亡を急がされたため、彼らは彼らの将軍を保持し続けることをやり通した。彼らは彼の腕と服を掴み、死者と、死につつある者と、そして硝煙の中、彼を引きずっていった。彼は沼地に真っ逆さまに落ち、そこで敵に囲まれたまま腰まで沈んだ」
Memoirs of the History of France During the Reign of Napoleon, Vol. III."http://books.google.co.jp/books?id=JW0uAAAAMAAJ" p362

 「橋の中ほど」まで到達した後に引きずっていかれ、それから「沼地に真っ逆さまに」落ちたのだから、アルポン川へ転落したと考えて問題ないだろう。その後で彼を助けに来た擲弾兵たちが「敵にぶつかり、彼らを橋の彼方へ追い払い」(Memoirs of the History of France During the Reign of Napoleon, Vol. III. p362)ナポレオンを助けたとあるのを見ても、橋がかかっていたアルポン川こそボナパルトの落ちた沼と考えるのが妥当だろう。問題は、そもそも橋に到達したと言っているのがセント=ヘレナのナポレオンくらいしか見当たらない点だ。
 たとえばベルティエの報告書では、ボナパルトの嵌った沼について以下のように書いている。

「司令官とその幕僚たちは押し流された。司令官自身は彼の馬もろとも沼地に転落し、敵の砲火を浴びながら、そこから苦労して引き上げられた」
Campagne du General Buonaparte en Italie"http://books.google.co.jp/books?id=4ARXyag379AC" p16

 読めば分かる通り、どこからどの沼地に落ちたかについて何の言明もない。「敵の砲火を浴びながら」救出されたという文章を読む限りはアルポン川沿いの沼地に落ちたと考えてもよさそうだが、それを裏付けるだけの記述がないことも確かだ。これがフランソワ・ヴィゴ=ルシヨンになるとさらに妙な表現が出てくる。

「しかし、彼[ボナパルト]は指揮が執れなくなった。退却移動の混乱のなかで、馬もろとも堤防の堀のなかに投げ出されてしまったのだ」
ヴィゴ=ルシヨン「ナポレオン戦線従軍記」p57

 ボナパルトが落ちたのは沼でなく「堤防の堀」となっている。堀という以上、それは川沿いに自然に存在する沼地ではなく、人工的に造られたものだろう。ヴィゴ=ルシヨン自身はアルコレの戦場に居合わせた訳ではないが、彼の記したことと同じ内容の話をより明確に書いている当事者もいる。マルモンだ。

「混乱があまりに酷かったためボナパルト将軍は押し流され、堤防建築に必要な土砂を供給するため過去に掘られた狭いながら水でいっぱいの水路がある堤防外側の基部に落ちた」
Memoires du duc de Raguse de 1792 a 1832, Tome Premier"http://books.google.co.jp/books?id=vrMFAAAAQAAJ" p237-238

 ボナパルトが落ちたのは「堤防建築に必要な土砂を供給するため過去に掘られた狭いながら水でいっぱいの水路がある堤防外側の基部」。ヴィゴ=ルシヨンの記している通り、人工物である堀に落ちたのだ。しかもその堀は堤防外側exterieur de la digue、つまり堤防を挟んで川とは反対側にあったという。
 これは実は結構重要な意味を持つ。フランス軍とオーストリア軍は橋を挟んで向かい合っていた。フランス軍が布陣していたアルポン右岸には堤防が築かれており、彼らはその堤防上を橋に向かって前進しようと悪戦苦闘していたのだ。堤防上から川の方を見れば、川を挟んで対岸からオーストリア軍が砲火を浴びせる様子が分かっただろう。兵の中にはそれを恐れて「敵の砲火から身を守るため堤防の背後に身を投じ」(Memoires du duc de Raguse de 1792 a 1832, Tome Premier, p237)た者もいた。堤防の背後、つまり堤防を挟んで川の反対側、要するに堤防外側に身を投げたのである。
 マルモンの証言を信じる限り、ボナパルトが転落したのは兵士たちが身を守るために飛び込んだのと同じ場所だった。その場所であれば、オーストリア軍の砲火は堤防に遮られて届かない。水路に嵌ったボナパルトが身動きを取れなくなったのは事実かもしれないが、その場ですぐにオーストリア軍に狙い撃たれる状態ではなかったし、ましてすぐ近くをオーストリア兵がうろつくような状況は考えられないのだ。
 ボナパルトの弟ルイの証言も見てみよう。

「退却を強いられたナポレオンはとてもゆっくりと後退したため、彼は最後に残された。彼の副官であるジュノー、マルモン、そしてルイは彼を先行させた。しかし群衆によって道路の基部に放り出された彼らは、他の道としてぬかるんだ地面にすぎないところを多大な苦労をして通過せざるを得ず、我々が司令官のために馬を数分前に用意したところ、彼は沼にはまってしまった」
Documents historiques et reflexions sur le gouvernement de la Hollande"http://books.google.co.jp/books?id=45tJAAAAMAAJ" p61

 「退却を強いられた」ボナパルトが堤防上にある道路の基部に放り出され、そこからぬかるんだ地面を歩いている時に沼に嵌った。もしボナパルトが放り出された「道路の基部」がアルポン川の側だったとしたら、敵の砲火を浴びるそんなところをのんびり通過していた訳がない。すぐ道路上へ戻ろうとしただろう。ボナパルトと副官たちが「ぬかるんだ地面」を通って退却したということは、その地面は堤防を挟んでアルポン川と反対側にあったと考える方が無難だ。
 要するにボナパルトが嵌った沼もしくは水路は、オーストリア側からは堤防に遮られて見えない場所にあったのである。もちろん、そういう場所でも堤防を飛び越えてきた銃弾などが頭上を通り過ぎることはあっただろうし、オーストリア軍が橋を渡ってこちら側へ攻め寄せてくるリスクもあった。できるだけ早く嵌った沼または水路から脱出する必要があったのは確かだが、危機の切迫度はそれほどではなかったかもしれない。

 長くなったので続きは次回以降に。

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