R・クロファードの報告 4

 皇弟殿下オーストリアのカール大公の司令部
 ベッツェンシュタイン、1796年9月16日
 閣下、
 大公の司令部からコンデ公の軍団が大きく離れていることと他の状況とが、コンデ公とその軍団の栄誉を大いに反映している戦闘(たとえそれが軍の全般的な作戦に実質的な影響を及ぼすに十分なほどの重要性を持たず、また情報記事として興味深いものであるには古すぎるとしても)の詳細を私が閣下に謹んで伝達できるのを今まで妨げていましたが、これらの勇敢で不運な人々の特にとても勇敢な行為について閣下が何の情報も得ないままであることは不公正でしょう。そういう訳でクロファード中佐は、このように遅れてしまったものの、閣下にこの戦闘に関する記録を送ることを望んでおり、私は最も信頼できる情報源からそれを採録しました。
 先月初め、ドナウとティロルの間の土地を守るために残された兵力はとても少なく、そのためコンデ公の軍団は極めて長い戦線に分割され、その半数を大きく超える兵力が殿下の直接指揮下の部隊から派出されていました。
 8月11日、公はミンデルハイム前面に布陣し、2つの前衛軍団をグンツに置いていました。その右翼はダンギャン公麾下にエルクハイム近くに、左翼はヴィオムニル将軍麾下にソウトハイムにいました。彼はまた右翼を守り、その方面の敵の動きを監視するために騎兵分遣隊をリッペンハウゼンに、もう一つをミンデルハイムとケンプトン間の道路上にある左翼のグンツブルクに送り出していました。グンツブルクの分遣隊はケンプトンの軍団と連絡を取っていました。
 12日、敵はダンギャン公の軍団を攻撃し、撃退されました。しかし彼らの数の多さはヴィオムニル将軍の左翼を迂回することを成功せしめ、それによってこれらの軍団双方はコンデ公の陣へ退却することを余儀なくされました。敵は今や大軍で前進して殿下の正面に迫り、森とカムラッハ村に布陣して決定的な攻撃を意図しているように見え、公は抵抗の準備をしました。彼は中央の歩兵を、彼が占拠している上及び下アウルバッハ村背後にある高地に配置しました。彼の騎兵は敵の視界から思慮深く隠され、砲撃から守られていましたが、行動が必要な機会が生じた時には前進できるよう準備していました。ダンギャン公の軍団は陣地右翼正面の高地に布陣し、ヴィオムニル将軍は同様に左翼のソウトハイムからミンドレハイムに至る道路を占拠しました。予備はミンドレハイム正面の高地に布陣し、そうしなければ数の多さととても森がちな土地を利用して敵が左翼を大きく迂回して陣の背後に現れるのを妨害するよう、500から600人の分遣隊がミンドレハイムの谷に置かれました。
 共和国軍がカムラッハの森と上及び下アウルバッハ村を分けている平地を渡って攻撃するべく前進を思い切って試みようとしなかったため、12日の残りの時間は遠距離からの重要でない射撃に費やされました。しかし夕方に公は彼の偵察部隊と哨戒線から、敵の強力な縦隊が右翼と左翼に前進しているとのはっきりとした情報を繰り返し得ました。そこで彼は、この陣を持ちこたえるには彼の側面に向かって移動している敵が彼を苦しめるため十分近くまで接近する前に正面の軍団を撃ち破るのが唯一のチャンスだと判断しました。そして殿下はそれを実行するには大いに数で優ることが必要だと知っていましたが、彼は大胆にも攻撃を決断しました。そのための布陣はほぼ以下のようなものでした。
 ダンギャン公麾下の右翼は下カムラッハ村を奪取し、可能なら森を貫いてエルクハイムへと進む。2個縦隊からなる中央は上カムラッハ村内と近辺の敵を攻撃する。ヴィオムニル将軍麾下の左翼はソウトハイムへの大街道を前進する。
 彼の戦力が劣勢なことと、敵がさらなる増援を受け取る懸念から、公は12日夜に彼らに向かって行軍することを決意し、貴族歩兵大隊(かつてフランス軍に奉職した士官たちからなる完全に特権階級のみで構成されており、その多くはシュヴァリエ・ド・サン=ルイである)は上カムラッハへの攻撃を始めました。庭を占拠した大隊からの射撃を受けた彼らはすぐに敵を村へ追撃し、カムラッハを守ろうと試みた兵たちを追い払い、すぐ村の反対側にある橋にたどり着きました。橋の背後にはいくつかの敵大隊が規則正しく陣形を組んでおり、射撃はとても厳しくなってさらなる攻撃が成功するかどうか雲行きが怪しくなりました。しかし貴族歩兵は敵に向かって猛烈に前進したため、敵は後退しカムラッハの森の中へ退却しました。そこでこの勇敢な紳士たちは再び共和国軍を攻撃し、その圧倒的な数的優位と、結果として起きた長く血腥い抵抗にもかかわらず、彼らを森の外へ、そしてその背後の高地へと追い払いました。その間コンデ公は、ダンギャン公が下カムラッハ村を奪った後でその背後の森が彼の前進を妨げるため頑強に占拠されているのを見つけた、との連絡を受けました。ヴィオムニル将軍も似たような状況にありました。そして敵は貴族歩兵の側面を回りこみ、彼らをカムラッハの橋から切り離そうと試みました。そこで殿下は、それぞれの軍団に陣地へ退却するよう命じる必要があることに気づきました。敵はカムラッハの森の端まで追跡してきましたが、平地へは入ってきませんでした。陣地に到着した公は、正面で敵に合流しようと前進している多くの増援を見ただけでなく、強力な縦隊が彼の両側面を迂回するように行軍しているのを理由に、完全に孤立するリスクなしにそこにとどまるのは全く不可能であると見ました。そこで彼は13日朝、ほとんど邪魔されることなくキルデフィンゲンへの退却を始め、ダンギャン公麾下の彼の後衛部隊は敵の軽歩兵のみに追跡されました。
 この戦闘における公の損害は約700人の兵と、多くの士官が殺され3人が負傷しました。貴族歩兵2個大隊は400人から500人の紳士を失いました。敵の損害もまたかなりの数に上ったはずで、中佐1人、大隊長1人と約60人が捕虜になりました。
 敬具
(サイン)ロバート・クロファード
A Collection of State Papers Relative to the War Against France "http://books.google.com/books?id=OZ4BAAAAMAAJ" p103-105

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