アンストラザーの報告 7

 皇弟殿下オーストリアのカール大公の司令部
 ヴァインハイム、1796年9月28日
 閣下、
 今月20日の手紙で私は閣下に、敵がウケラトの地点で抵抗を企図しているという広く行き渡っている考えを謹んでお伝えしました。しかし21日、ジーク沿いには後衛部隊のみがとどまり、主力はデュッセルドルフの方へ向かっており、その間右翼の2個師団はボンでラインを実際に渡ったとの明白な情報が届きました。
 大公は今や上ラインに対する計画していた作戦を実行する自由を得たと認識し、その目的のために必要な準備を遅滞なく行いました。
 ラーンを防衛することになっている軍を指揮するヴェズネック中将は22日にウケラトとジークに前進するよう命令を受け、同時に殿下はマインへの行軍を始めました。彼は今月25日にその河を渡り、マヤンツ[マヤンス]とフランクフォルト間にかなりの予備を駐留させ、上ラインへ進みました。
 ペトラッシュ中将の最新の報告では、敵の損害がかなりのものに達したいくつもの成功した遠征に言及した後で、今月17日にケールに対して行った不運な試みについて述べています。攻撃は2つの縦隊で行われ、最初は完全に成功しました。フランス軍は多くの損害を出して町と要塞から追い出され、ライン対岸へ避難することを強いられました。不幸にもオーストリア軍縦隊の1つでは指揮官が戦死し、もう1つでは戦闘の間に捕虜になったため、リーダーを奪われた兵たちは大混乱に陥りました。その間にストラスブールから増援を受けたフランス軍は、オーストリア軍が破壊せずに無視していた橋を渡って彼らがある程度の秩序を回復する前に襲い掛かり、彼らが勇敢に奪った陣地から今度は彼らを追い払いました。
 敵を駆逐しようとする失敗に終わった努力の後で、ペトラッシュ中将はビショフスハイムの陣まで退却しました。そしてケールを監視するため、及びクニービスの渡河点とコイツィヒ谷を守るための分遣隊を残し、残りの軍団とともにシュトゥットガルトへ行軍し、彼の前衛部隊はそこに今月24日に到着したようです。
 ラ=トゥール将軍の報告によると、私が閣下に謹んで言及したように、モローはイーゼルからレックの背後へと退却し、今月17日には前方への移動を行いオーストリア軍の前哨線を追い払って戦線をレック沿いのランズベルクまで延伸したようです。
 イラー川を防衛していたフレーリヒ将軍は17日にイメンシュタットとケンペンを占拠し、19日にはイサイに前進してそこで敵を完全に打ち破り、500人の捕虜を得て残りの軍団を森の中へ追い散らしました。かくしてモローの右翼は完全に無防備になりました。
 一方ナウエンドルフ将軍はかなりの軍団とともにノルトリンゲンへ前進し、そこから20日にはドナヴェルトとシェレンベルクを奪いました。彼の部隊はディリンゲン、ウルム、そしてゲムントへと手を伸ばし、そこから彼はコンシュタットでペトラッシュ将軍の軽兵と連絡を確立しました。
 この状況下でモローは退却の必要性を感じました。20日夜、彼はアウグスブールとラインでレックを再渡河しました。22日には彼の司令部はヴァイセンホルンにあり、そして彼はナウエンドルフが指揮していたウルムを占拠しました。ラ=トゥール将軍は22日にレックを渡り、彼の前衛部隊はヴェルティンガーにいました。
 敬具
 ロバート・アンストラザー
 第3近衛連隊大尉
A Collection of State Papers Relative to the War Against France "http://books.google.com/books?id=OZ4BAAAAMAAJ" p99-100

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