ウルム戦役

 MaudeのThe Ulm Campaign"http://www.archive.org/details/ulmcampaign180500mauduoft"読了。彼が記したナポレオン関連の作品としては他にJena、Leipzigがあり、いずれも比較的簡単に入手できるのだが、Ulmに関してはそうはいかなかった。従ってネットで閲覧できるのは大変ありがたい。ディスプレイを見ながら読むのが大変なのが難点とはいえ、ただで見られるのだから文句は言うまい。
 Maudeの視点で面白いのはウルムで敗北したオーストリアのマックに対してかなり同情的な点だ。一般的にはウルムの敗北は全てマックの責任という論調が強いのだが、Maudeはそれに対してマックをかなり擁護している。代わりに批判を浴びているのがマックの名目上の上司であったフェルディナント大公とその取り巻き。まあ実際はどちらもそれなりに敗北に責任があったと考えるのがおそらく妥当なのだろうが、文章としてはどちらか一方に肩入れして書かれたものの方がある意味おもしろい。
 Maudeが取り上げたマックの言い分は、主にMemoires Justificatifsというパンフレットから取ったものらしい。残念ながらネットで調べてもマリー・アントワネットが巻き込まれた首飾り事件に関する文献ばかりが引っかかるため、マックの原文がどんなものかは分からない。マックの言い訳に関しては他にVertheidigung des oestreichischen Feldzugs von 1805という文献があるそうで、こちら"http://home.wanadoo.nl/g.vanuythoven/Mack%201805.htm"にそのほんの一部が英訳されて載っている。これまたネットで原文を探したが見つからなかった。
 私が気になっているのは、マックが作戦を立案する際にクライが行った1800年戦役をどのくらい参考にしたのか、という点である。残念ながらMaudeの本を読む限り、その点についてはよく分からないとしか言いようがない。マックがプロイセン領だったアンスバッハの中立をほとんど無条件で信じていたこと、フランス軍が中立侵犯した後も時間を稼いでロシア軍などが到着するのを待とうとしたことは分かるのだが、それがなぜウルムだったのかというのは不明だ。
 もう一つ興味深かったのは、ウルム戦役を1870年の普仏戦争に見立てた話。私は普仏戦争については詳しくないのでどこまでこの指摘が正しいのかは判断しかねるのだが、ナポレオンが(普仏戦争ではモルトケが)自分たちの移動能力を前提に敵の行動を予想し、それが危うく大外れになりそうだったという点が共通しているらしい。
 このあたりはもう少しきちんと調べる必要があるが、Maudeによればナポレオンはオーストリア軍がティロルへ逃げる可能性を重視してドナウ右岸に兵を集めすぎた結果、左岸がほぼがら空きになってオーストリア軍の逆襲を許したという。一般にはこの「左岸がら空き事件」はミュラのせいにされているのだが、Maudeの指摘が正しいのならナポレオン自身の判断ミスもその一因だったということになる。もしかしたらイエナ戦におけるベルナドットのように、ミュラも必要以上の非難を浴びているのかもしれない。
 左岸ががら空きになった時にオーストリア軍が逃げそこなった理由についても、もう一度調べなおした方がよさそうだ。Maudeによればその責任はフェルディナント大公にあるということになるが、他の研究者は確かマックを批判していたやに記憶している。ここでうまくウルムからの脱出に成功していれば、マックはナポレオンの裏をかいた人物として歴史上でも全く違う評価を受けていたかもしれない。
 マック批判の多くが後知恵であることは確かだ。今でこそ我々はナポレオンがアンスバッハの中立を侵犯してオーストリア軍の背後に現れたことを知っているが、当時の人間にそれを予想しろというのは確かに酷だったかもしれないのだ。1796年戦役でも、1800年戦役でも、フランス軍は中立領を、特にプロイセンの領土を侵犯しないように作戦行動を実施している。マックが1800年戦役から学んだ最大のものは、実はその事実だったかもしれない。逆に言えばナポレオンが行った政治的ギャンブルは、当時のオーストリア軍指揮官の想像を超えるものだったということになる。

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