1806年再訪 その2

 承前。

 前回はCharrierが指摘した「ダヴー救援の助言」が実際にあったのかどうかを調べてみた。でCharrierは他にダヴーがベルナドットに対して2回の増援要請を送ったとも記しているようだ。一つは午前10時、カムブルク近くにいたベルナドットに対してロムーフ将軍(掲示板ではgen Romeufと書かれていたが参謀副官adjudant-generalの間違いと思われる)を送ったもの。Segurの"Souvenirs d'un aide de camp de Napoleon"のp306から引用しているのだとか。
 問題はそもそもこのSouvenirs云々という題名の本が見つからないことだ。似たような題名で1873年出版の"Un aide de camp de Napoleon de 1800-1812"という本はあり、私はその英訳本を持っている。それによると「10時頃、最も危機的な瞬間、帽子をかぶらず弾丸に身を晒していたダヴーは、彼[ベルナドット]に救援に来るよう嘆願を送った」(Segur "Memoirs of an Aide-de-Camp of Napoleon, 1800-1812" p258)とあるのだが、ダヴーが誰を伝令に送り出したかについては何も書かれていない。この本はロムーフが増援要請に送り出されたことの裏づけにはならないのだ。
 もちろんCharrierが参照したのはあくまでSouvenirs云々という本であり、私が見たのとは別である可能性は残っている。それにしてもSouvenirs云々でググっても一つも引っかからないというのはいささか奇妙ではないか。"Un aide de camp de Napoleon" Segurでググると120件以上出てくるのに。それとも英訳本には載っていないが原書ではロムーフの名がきちんと記されているのだろうか。謎は深まるばかりだ。
 ロムーフに関するセギュールの史料を見つけることはできていないが、それが存在することを窺わせるものならある。Revue Militaire Generaleの1907年後半分"http://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k107600z"にVacheeが書いている"Etude du Caractere Militaire du Marechal Davout"第5章には、以下のような文章が載っているのだ。

「(前略)10時頃ベルナドットは副官ロムーフによって運ばれてきた新たな要望を受け取った。『この時彼はカムブルクの橋に近づいており、単にそこを渡ってしばらく移動すれば2万人の先頭に立って敵の右側面に現れることが十分にできたし、その登場で勝利は決まっただろうが、彼は支援することを拒否したのみならず、彼の麾下にない竜騎兵3個連隊も自らの手元に残した』」
Revue Militaire Generale"http://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k107600z" p160

 Vacheeはどこからこの文章を引用したのか明らかにしていないが、もしかしたらこれがCharrierの見つけたSouvenirs云々本に書かれている文章なのかもしれない。ただ、カムブルクの橋を渡って少し移動すればすぐにプロイセン軍の右側面を脅かせるという見解がどれほど正しいかは検証が必要だろう。カムブルクと主戦場だったハッセンハウゼンの間は8キロほど離れているし、間にはイルム川が流れている。小さい川だが、橋があったのか否か、渡渉可能だったかどうかという点も確認しなければなるまい。
 ちなみにロムーフについてはサヴァリーの回想録でも触れられている。それによるとロムーフはダヴーが騎兵の不足からプロイセン軍を十分に追撃できなかったという報告を皇帝に伝えたらしい。彼自身はベルナドットや騎兵の行動について特に触れなかったが、ナポレオンにその点を問い質された際には唇を噛み締めながら両者とも戦場には姿を見せなかったと述べたのだとか(Memoires du Duc de Rovigo, Tome Deuxieme, p288)。これまた興味深い話だ。
 いずれにせよ最大の問題は、サヴァリーもセギュールも現場、つまりベルナドットと一緒に行動していた訳ではないという点だろう。彼らはナポレオンと伴にイエナの戦場にいたのであり、ベルナドットの司令部で何が起きていたかについては当事者、目撃者とはなり得ない。つまり彼らの記録は厳密に言えば一次史料ではないのだ。当事者の残した史料を元にこの件を調べるのなら、やはりTiteuxの文章の方が参考になるだろう。

 もう一つCharrierが確認した増援要請は、トロブリアンが午後4時ごろにアポルダでベルナドットと遭遇した例。Charrierはトロブリアンの手紙をでっち上げだとは考えていないようで、1960年代にトロブリアンの任務に関する報告書(トロブリアン自身の筆跡ではないようだが)をSHAT"http://en.chateau-vincennes.fr/rubrique.php?ID=1003640"で発見したというのがその理由だ。ただし、この報告書はその後姿を消してしまったそうで、これが再発見されない限りトロブリアンの話がどの程度妥当かを判断することはできない。

 最後にCharrierは多くの軍人がベルナドットの行動を批判していることを指摘する。オーブリー、リュミニー、コルベール、セギュール、フェズンサック、ローゲ、サヴァリー、マルボ、ベルトゼーヌなどがそうだ。ただ、これについては掲示板に「回想録作者たちは1813年にフランスと戦ったベルナドットを批判するために1806年の話を取り上げている」との指摘も出ている。彼らベルナドット批判を行った面々が、いつその批判を記したのかはきちんとチェックするべきだろう。
 Napoleonic Literature"http://www.napoleonic-literature.com/"によればオーブリーの本は出版が1889年、リュミニーは1821年、コルベールは2人いるが早い方でも出版は1863年、セギュールはおそらく1873年、フェズンサックは1863年、ローゲも2人いて早いほうで1850年、サヴァリーは1828年、マルボは1891年、ベルトゼーヌは1855年。どれを見ても1813年以前に出版された本はない。彼らの意見が、本当に1806年時点での軍の空気を伝えているのかどうかは不明だ。
 とはいえ、実際にベルナドットを非難する人物が多いことは頭の中に入れておく必要がある。具体的な証拠としては(トロブリアンの報告書が再発見でもされない限り)根拠薄弱なものが多いとはいえ、軍に所属していた人間の発言にはそれなりの意味がある。彼らが全員揃ってスウェーデン皇太子になった後のベルナドットに対する批判的見解を持っていたという証拠もないのだ。
 結局、可能なのは史料を厳密にチェックしたうえでできるだけ客観的な基準に則ってその信頼性を図るという手続きを踏むことだろう。現場に居合わせた当事者または目撃者の証言で、しかも記録された時期ができるだけ古いもの。さらに、一人や一方の側の視点だけでなくできるだけ多面的な証言を集める。そうした作業を地道に続けるしかない。もちろんできないこともあるが。

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